第6話: 断てない理由
蓮は、約束の時間より十五分早く事務所に来た。
すりガラスの向こうに立つ人影は、先日のカフェのアルバイト姿と違って、きちんとした白いシャツを着ていた。サイズがわずかに大きいところを見ると、たぶん、今日のために慌てて買ったのか、あるいは実家の兄か誰かから借りてきた一枚なのだろう。髪には、慣れない手つきで整えた寝癖の跡が、それでも残っていた。扉を押し開けた彼は、靴を脱ぐ前に一度、会釈をした。
「楠さん。今日は、ありがとうございます」
楠咲良は面談スペースではなく、応接のソファに彼を案内した。
依頼人ではない相手をあの机で迎えるのは、違う気がした。
冷やした煎茶を湯呑に注ぎ、ローテーブルに置く。ドライフラワーの一輪が、午後の光を受けて薄い影を落としていた。
蓮の周囲に伸びている糸は、一本だけ——咲良に向かって伸びる、真新しい白い糸。
先日より、ほんの少しだけ太くなっていた。糸ほどの細さから、もう一段、太い糸ほどへ。出会いから数日で、色と形の方向を模索している縁。まだ色は決まっていない。白のまま、けれど、以前より明らかに存在感が増していた。
咲良は視線を糸から外し、蓮の目を見た。
「柊蓮さん、ですね」
「はい」
「先日、『何かできることはないか』と仰っていました。今日はその答えを聞きたい、ということでお越しいただいたと思っています」
蓮は頷き、膝の上で指を軽く組み直した。
「その前に——俺のほうから、先に、一つだけ、話していいですか」
咲良は頷いた。
「俺の母は、昔、DVを受けていました」
蓮はまっすぐ、咲良の目を見たまま言った。
変に悲劇ぶる気配も、同情を引こうとする気配も、なかった。ただ事実を机の上に置く、そんな手つきの話し方だった。
「俺が三歳のときに両親は離婚したから、記憶はほとんどないんです。物心ついたときには、母と二人で団地に住んでて、母は昼と夜にパートを掛け持ちしてて、俺はテレビと母の声だけを頼りに育ちました」
「ええ」
「母は、強い人です。今も元気に働いてます。ただ、離婚したあとも、しばらくは、父の影を怖がっていました。夜中にドアの音がすると、飛び起きて俺の部屋を覗きに来る。何年経っても、同じタイプの男性の声を聞くと、身体が固まる」
蓮は視線を一度、湯呑に落とした。
「縁を、断てなかったんですよ。法的には離婚していても、心の中の糸みたいなものは、たぶん、長いこと残ってた。俺が高校生くらいになって、ようやく、母が笑うようになった。それまでの十年間は、家の空気の中に、まだ『あの人』がいたんです」
咲良は黙って聞いていた。
蓮の糸が、話しながら、ゆっくりと脈打っている。白い糸だが、一瞬だけ、薄い青が混じった。怒りではない。遠くにあるものを振り返る人特有の、あの静かな藍色の影だった。
「だから、先日、カフェで楠さんの仕事を見て——」
蓮は顔を上げた。
「あの糸を、あのとき、母のところから切れていたら。母の十年間は、違っていたかもしれないって思ったんです。あの若い男性のお客さんの震えが止まるのを見たとき、俺、たぶん、泣きそうになってました。カウンターの中で、バレないように、グラスを拭きながら」
咲良は、湯呑を両手で包んでいた。
「だから、俺、楠さんの仕事を、手伝いたいんです」
蓮は背筋を伸ばした。
「俺に能力はない。縁は視えない。糸も断てない。でも、あのお客さんが席を立つとき——『ありがとうございました』って、店を出るときに振り返って一言言ってくれた人、たくさん見たい。そういう場所に、いたいです」
咲良は、すぐに返事ができなかった。
蓮の言葉は、まっすぐすぎて、かえって咲良の内側を揺らした。
職業的な理由ではなく、個人的な理由ではなく——その中間にある、もっと身体に近い理由で、蓮はこの仕事に惹かれていた。
だからこそ、咲良は困っていた。
咲良は、人を雇うということを、今まで一度もしてこなかった。
二年前に事務所を開業したとき、手伝いの有無を真剣に考えた時期はあった。叔母からも「一人じゃ限界があるよ」と言われたことがある。結局、咲良はその声を全部、柔らかく断ってきた。
理由は、単純だった。
咲良は、人と深く関わることが、怖かった。
能力を持って生まれてから、咲良の周囲には常に糸があった。親しい人との間に糸が視える。視えてしまう。色、太さ、状態、全部。親友の薄紅が、ある日少し濁ったら、その濁りを見て見ぬふりができない。恋人がいたとしても、相手の糸の変質を先に知ってしまう。
相手がまだ気づいていない気持ちを、咲良は先に見てしまう。
だから咲良は、長く続く関係を、自分から作らないようにしてきた。
母の死の後に身につけた、生きる知恵のようなものだった。
蓮の糸は、まだ白い。白は新生の縁。色が決まるのはこれから。
もし蓮を助手として受け入れれば、咲良はいずれ、彼の糸が「青」に決まるのも、「薄紅」に傾く瞬間も、視ることになるだろう。
視ながら、何も起きていないふりをする日々が続く。それが、咲良の「人と深く関わる」ということの、常に行き着く景色だった。
「柊さん」
咲良は声を整えて、言った。
「お気持ちは、よく分かりました」
「はい」
「ただ、私の仕事は、傍にいる人にも負担がかかる仕事です。依頼人の苦しみを毎回聞きます。悪縁を断った反動で、私は時々、動けなくなります。頭が痛くなって、指先が痺れて、しばらくソファから動けない。そういう日の事務所に、柊さんがいるかもしれない」
「それは、構いません」
「『構わない』と言える人は、大抵、構っています。途中で」
蓮は、即答しなかった。
少し黙って、それから、静かに言った。
「母の十年間を、俺、ずっと見てきました。動けない母を、放課後、ずっと見てきました。だから、動けない人が横にいることに、たぶん、慣れてます」
咲良は、目を細めた。
「……そうですか」
「すみません、偉そうなこと、言いました」
「いえ。事実なら、事実でいいです」
咲良は一呼吸、置いた。
自分の内側で揺れているものを、落ち着かせるために必要な時間だった。
「少し、考えさせてください」
「はい」
「今日は、お話を聞かせていただいて、ありがとうございました。ご返事は、一週間以内にお電話します」
蓮は深く頭を下げ、立ち上がった。
扉の前で、振り返らず、ただ一言、言った。
「俺、急がないので。楠さんのペースで、考えてください」
扉が、静かに閉まった。
一人になった事務所で、咲良はソファに背を預けて、天井を見上げた。
蓮の白い糸は、扉の向こうに消えていった。けれど、糸そのものは消えていない。数メートルの距離を置いても、薄い白が、事務所の空気の中に、微かに残っていた。糸の端がまだ彼の方向へ伸びている以上、縁はまだ断たれていない——どころか、始まろうとしている。
蓮は、急がないと言ってくれた。
咲良は、急がなくていいことが、むしろ辛かった。急げば、理由をつけて断ることもできた。「今は手が回らない」「タイミングが悪い」。急がないと言われた瞬間、その逃げ道は全部、蓮の側から静かに閉じられていた。
断る理由は、きれいに並んでいる。人を雇う経験がない。能力者の仕事に素人を巻き込むリスクがある。糸を視てしまう距離の近さに耐えられない。
どれもこれも、咲良自身の「怖さ」を言い換えただけだった。
左手首のブレスレットに、無意識に触れる。
その下にある傷痕を、指先でなぞる。
母も、こうやって一人で、人を遠ざけて生きたのだろうか。それとも、本当は違う選択を、どこかで握りつぶしていたのだろうか。
咲良には、分からなかった。
電話機が、不意に鳴った。
咲良は反射的に姿勢を正し、受話器を取る。
「はい、さくら行政書士事務所——」
途中で、息が止まった。
受話器の向こうから聞こえてきたのは、咲良がよく知っている声だった。三ヶ月前、面談スペースのソファで、長い時間をかけて悪縁の糸を視せてくれた女性の声。一度、咲良が確かに糸を断った依頼人。
「……楠さん。山本です。山本恵です」
山本の声は、記憶の中よりもずっと小さく、けれど、どこか落ち着いていた。落ち着いている、というより、諦めている、に近い落ち着きだった。
「私——あの人のところに、戻っちゃいました」
咲良の指先が、受話器を強く握った。
「糸は、もう、ないはずなんです。楠さんが、あの日、断ってくれた。私、それを見ていました。だから、戻る理由は、何もなかったはず、なんです。でも——」
山本は、受話器の向こうで息を吸い直した。
「戻って、しまいました」
咲良は、何も言えなかった。
視えないものがある。糸が断たれても、残り続ける何か。それが今、咲良のほうに、向こうから、ゆっくり歩いてこようとしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第6話は、依頼のない、キャラクター回です。
蓮の母のDVの話を書くかどうかは、構想段階でずいぶん迷いました。重いテーマをサラッと通過させるのは難しく、かといって長々と描くと本筋が止まります。結果、蓮が自分の言葉で淡々と事実を置く形に落ち着きました。悲劇的に語らせないほうが、読者の側で想像される重量が大きくなる——それは、縁切り屋という物語全体の流儀でもある気がします。
咲良が即答できないのは、彼女の能力の「呪い」の部分が初めて本文で明かされる瞬間でもあります。視えてしまうから、近づけない。これは第一話で提示した「自分の糸だけ視えない」という設定の裏返しです。他人の糸は全部視えるのに、自分の糸は視えない。その非対称が、咲良の孤独の形を決めています。
そしてラストの電話。糸を断っても、人は戻ってしまうことがある——次話は、咲良が初めて突き当たる「仕事の限界」の話です。
☆ブックマーク・評価・感想をいただけると励みになります!




