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縁切り屋と呼ばれていますが、私が断つのは「悪縁」だけです——なお、自分の赤い糸は見えません  作者: 歩人


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第5話: 労働基準法と悪縁

 世田谷のさくら行政書士事務所に、その男性は土曜の午前、スーツ姿のまま現れた。咲良はその三時間前、同じ面談スペースで中村和子と翔太の母子面談を終えたばかりだった。黒い部分だけを丁寧にほどく作業で、数日を要する。段取りの書き置きを机にしまって、午後の田中と向き合う。


 楠咲良くすのきさくらは出入口のすりガラス越しに、長身の影が揺れているのを見ていた。立ち止まり、引き返しかけ、もう一度戻ってくる。その逡巡を三度繰り返してから、ようやく扉が押し開けられた。

 入ってきた男は、痩せていた。四十前後に見えたが、書類上は三十五歳だった。

 田中健一。中間管理職。電話で予約を取ったとき、声が途中で何度も切れた。呼吸が上手くできない時の、あの切れ方だった。


「お待ちしていました」


 咲良は面談スペースへ案内した。冷やした煎茶を湯呑に注ぎ、田中の前に置く。

 田中は座ったが、カバンを膝の上に抱えたまま、下に置かなかった。抱えたものを手放す余裕が、今はない——そういう座り方だった。

 咲良は視た。

 田中の周囲に伸びている糸は、主に二本。


 一本目は、田中の肩口から後ろに向かって、太い黒い糸が伸びていた。紐ほどの太さ。張り詰め、脈打っている。相手は、ここにいない。だが糸は強く生きていて、伸びる方向の奥を咲良は知らなくても、糸の状態だけで「ここに繋がっているのが健全ではない」と分かった。

 二本目は、田中の胸の中心あたりから、斜め下——机のほうにではなく、机の外側の何もない空間に向かって、凍りついた金色の糸が伸びていた。細い紐ほど。金色は信頼の色だが、この糸は完全に動きを止め、氷の中に閉じ込められたように、色までほとんど透明化していた。


 咲良はメモ帳を開いた。


「田中さん。まず、現在のご状況を、順番に教えていただけますか」




 田中は、話し始めるのに数秒かかった。


「……退職届を、出したんです。三回」


 かすれた声だった。


「毎回、上司が受け取ってくれなくて。机の上に置いても『認めない』と言われ、メールで送れば『本人の意思確認が取れていない』と返される。人事部に直接持っていこうとすると、上司が廊下で待ち構えていて、『お前、どこ行くんだ』と」


 田中の指が、カバンの持ち手を握り直した。


「三ヶ月です。もう、眠れないんです。会社のことを考えると、吐き気がします。でも辞められない。物理的に、辞めさせてもらえない」


「……上司の方は、なぜそこまで引き留められるんですか」


「僕は、案件を一つ抱えていて。上司はその案件のキーマンが僕だと思い込んでいる。実際は、僕じゃなくても回ります。でも、上司の評価にその案件が絡んでいるので、僕が抜けると上司の数字が崩れる。それだけのことです」

「上司の方個人の都合、ということですね」

「そうです」


 田中は乾いた笑いを、ひとつだけ漏らした。


「会社そのものは、嫌いじゃなかったんです。同僚も、顧客も。ただ上司が、僕に張り付いている、それだけが、生きていけない理由になった」


 咲良は、田中の胸から伸びる凍った金の糸を視ていた。

 会社そのものへの信頼。かつては健全に動いていた糸だ。それが、上司との黒い糸に覆い尽くされるうちに、金色ごと凍って動かなくなった。

 田中が辞めたいのは、会社ではなく、上司との悪縁だった。だが現実の仕組みの中では、上司から離れるには「会社を辞める」しか選択肢がない。

 だから田中は、まだ健全な金の糸までも、自分の手で凍らせるしかなかった。


 その構図が視えた瞬間、咲良は動いた。




「田中さん。今日、私ができることは二つあります」


 咲良はノートを開き、ペンを握った。仕事の姿勢に、音もなく切り替えた。


「一つ目は、行政書士としての書類整備です。内容証明郵便で、退職届を会社宛に送ります。民法第六百二十七条——期間の定めのない雇用契約は、二週間前の申し出で終了できます。受理の可否は問題になりません。届いた事実と、二週間の経過で、退職は法的に成立します」


 田中が顔を上げた。


「……二週間で、成立するんですか」


「はい。上司が受理するかどうかは、関係ありません。会社の人事部が『受理していない』と主張しても、内容証明郵便の配達記録が、法的な到達の証拠になります。合わせて、労働基準監督署にパワハラの事実を申告するための書類もご用意します。これは代理ではなく、ご本人が提出する書類の整備です」


「ぼくが、出すんですね」


「そうです。ご本人の意思で出していただく書類です。私はその書き方をお手伝いします」


 田中は、ゆっくり頷いた。頷く動作そのものが、久しぶりに体を動かす練習のように、ぎこちなかった。


「二つ目は——」


 咲良は、声の温度をわずかに落とした。


「こちらは、信じていただけないかもしれませんが」

「はい」

「田中さんの肩に、悪縁の糸が絡んでいます」

「……悪縁、ですか」

「上司の方との縁です。法的には書類で距離を作ります。でも、書類ができたあとも、その縁の糸は残ったままになる可能性があります。夢に見たり、似た口調の人に過剰反応したり。私はその糸を断つことができます。法的手続きと、並行して」


 田中はしばらく、黙っていた。信じる、信じない、の手前に、そもそも他人の話を受け止める体力が残っていない人の、空白の沈黙だった。


 咲良は急かさなかった。湯呑の外側に付いた水滴が、テーブルの木目をゆっくり染めていくのを、ただ視界に入れていた。


 やがて、田中は小さく言った。


「……お願いしたい、です」

「ありがとうございます」


 咲良は頷いた。


「書類の作成は、私が今日中に下書きを作ります。月曜の朝、内容証明郵便の窓口で一緒に発送しましょう」




 月曜の朝、咲良と田中は郵便局の窓口で内容証明郵便を差し出した。

 二通。会社宛と、上司宛。労働基準監督署への申告書類は別途、手元の控えを田中自身が後日直接提出する手はずになっていた。

 受付の職員が、一通ずつ慎重に捺印していく。赤いインクが紙の端で微かに滲むたびに、田中の肩が少しずつ下りていくのを、咲良は横目で確認していた。

 書類が正式に「送られた」瞬間、田中の胸から伸びていた凍った金の糸が、かすかに解け始めた。凍りついていた色が溶け、ゆっくりと流れ出す。

 金色が、戻ってきた。

 会社への信頼ではない。「自分が会社に留まるかどうかを、自分で決めた」という実感の、金色だった。


 郵便局を出た歩道で、田中は小さく息を吐いた。三ヶ月ぶりに呼吸が続いた、そんな顔をしていた。


「楠さん。もう一つの、ほう、は」


 かすれた声で聞いた。


「あの、糸、の」


「今からです」


 咲良は田中の後ろに回った。肩のわずか上空——田中自身には見えない位置に、紐ほどの黒い糸が、今も上司のほうへ向かって伸びていた。

 咲良は右手を、糸の一点に伸ばした。指先に、紫案件で感じたあの鈍い圧が戻ってくる。ただし今回の糸は、紫案件より細い。田中側からの縁そのものが、すでに灰色で返答していて、黒は上司からの一方向だった。

 咲良は頭の中で、田中が郵便窓口で見せた最後の頷きを思い出した。辞めると決めたのは、田中さんだ。自分はその後始末をするだけ。

 指先に力を込めた。


 黒い糸が——断たれた。


 田中は、何も感じなかったらしい。ただ、歩道の端でふと、自分の肩を軽く回した。

 凝っていた肩のどこか——自分でも説明がつかない場所に、今までずっと乗っていた重みが、一つだけ、静かに降りていた。


「……軽い、です」


 田中は、呟くように言った。


「何が、とは言えないんですけど。肩が、軽いんです」

「それは田中さんが、三ヶ月ぶりに『辞める』を自分の意思で完結させたからだと思います」


 咲良は言った。


「糸を断ったのは、その後始末です」


 田中は、初めて、微かに笑った。




 事務所に戻った咲良は、椅子に沈み込んだ。


 こめかみの痛みは、先週の紫案件より軽い。細い黒だったからだ。だが、それでも反動はある。ブレスレットの下で傷痕がうっすら熱を持ち、左手の指先が少し痺れていた。

 デスクに、田中から渡された礼状が置かれていた。手書きの一文だけ。


 ——生きていて、大丈夫な気がしました。


 咲良は礼状を、書類棚の奥の小さな引き出しにしまった。そこには、美咲からの似た一文もあった。


 縁切り屋の仕事は、派手な看板も、大きな報酬もない。

 ただ、「大丈夫な気がしました」という一文が、細く長く事務所の引き出しの奥に積まれていく。それだけが、この仕事が役に立っている証拠になる。


 咲良はふと、先週のカフェで、若いアルバイト店員——柊蓮と名乗った青年の言葉を思い出した。


 俺にも、何かできることありませんか。


 あのとき、咲良は返事ができなかった。

 今も、返事はまだできていない。けれど、田中の礼状を引き出しにしまった瞬間、咲良の中で、何か一つ、角度が変わった気がしていた。

 「手を挙げた人」を、いつまで宙吊りにしておくか——それもまた、咲良が決めていい話だった。


 咲良はスマートフォンを手に取り、メールアプリを開いた。

 カフェでもらった小さなショップカードを、財布の奥から取り出し、そこに書かれた蓮の連絡先を、ゆっくり画面に打ち込み始めた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第5話は「労働基準法と悪縁」でした。


縁切り屋というと超常的な力だけが目立ちがちですが、この物語では、いつも法律と能力が並行して動きます。民法第六百二十七条——雇用契約は二週間前の申し出で終了できる、という条文は、現実世界で苦しんでいる人にとってまさに生命線です。「辞めさせてもらえない」は法的には存在しない状態で、受理・非受理を問わず、到達と二週間の経過で退職は成立します。咲良の行政書士としての武器は、この条文の静かな強さでもあります。


田中さんの糸は、書いていて少し痛かったです。肩の上司と、胸の会社への金色。その二本が同じ「職場」という場所に繋がっているのに、色も状態もまったく違う。日本で働いていると、この「本当は悪縁じゃないほうまで自分で凍らせるしかない状況」に陥る人が、きっと少なくないと思います。凍った金が最後にほどけるシーンが、この話の核でした。


そしてラスト——咲良はついに、蓮に連絡を取る決断をします。次話、蓮の過去が、少しだけ開きます。


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