第4話: 弟子入り志願
三軒茶屋の路地裏にあるカフェを、咲良は待ち合わせ場所に指定した。
中村翔太からのメールに対して、咲良が返信した場所だった。母親には知られにくい場所で、なおかつ、昼間でも人の目がある程度はある場所。一対一で若い男性と個室に入るのは互いにとって負担だろうという判断で、テラス席もある少し広めのカフェにした。
楠咲良は約束の十分前に着いた。
奥のテーブル席を選ぶ。視界が広く、出入り口が見える位置。テラスと店内を仕切る大きな窓越しに、午後三時の光が白く差し込んでいた。
カウンターでアイスコーヒーを頼む。カウンターの向こうには、大学生らしい若い男性のアルバイト店員がいた。柊、という名札。短い茶髪に、寝癖が少し残っている。パーカーの上にカフェ指定のエプロンを掛けている、いかにも授業の合間にシフトに入っています、という佇まいだった。
愛想は悪くないが、距離感が丁寧で、余計なことを話しかけてこない。咲良にとっては楽な接客だった。氷を多めにしたアイスコーヒーを受け取り、テーブルに戻る。カウンターの奥では、青年がグラスを拭きながらも、時々店内に目を走らせている様子が、視界の端に映った。
この店員は、他人の所作をよく視ている——と、咲良はその時、軽く意識の端に置いただけで、すぐに忘れた。
席に戻ってコーヒーに口をつけたところで、ガラス扉が開いた。
「あの——楠さん、ですか」
入口で一瞬立ち止まった青年が、まっすぐこちらに歩いてきた。
中村翔太は二十一歳の割にやや痩せ気味で、洗いざらしの白いシャツに黒いパンツという、地味だが清潔な装いをしていた。視線が上から下へ泳ぎ、それから咲良の目に戻ってくる。あまり人と目を合わせ慣れていない若者の、独特の迷い方だった。
「はい、楠です。中村翔太さんですね」
「すみません、急にお呼び立てして」
翔太はぎこちなく頭を下げ、向かいに座った。
咲良は視た。
翔太の周囲に伸びている糸は、たった一本。昨日、和子の側から視えたものと同じ関係の、もう一端だ。
銀と黒の斑模様。ただし、和子側の糸とは濃淡が違っていた。
翔太側のほうが、黒の斑が小さく、その代わりに、糸の全体が震えていた。細かく、ずっと震えている。弦楽器の弦が調律されず張り詰めすぎて、ほんのわずかな風でも共鳴してしまう、ああいう震え方。
愛情と、恐怖。
翔太の中で、母という存在はまだ「大切な人」だった。同時に「近づくと壊される何か」にもなっていた。糸は一本だが、中に二つの感情が螺旋状に絡まっている。
咲良は自分の表情が緩むのを意識的に抑えた。
「……母が、昨日、楠さんのところへ伺ったと聞きました」
翔太が最初に口にしたのは、この一言だった。
「はい。お母様からご相談を受けました」
「母は、なんて言いましたか」
咲良は一瞬、迷った。
依頼人の話した内容を、そのまま家族にでも伝えるわけにはいかない。ただ、翔太の震える糸を視ている今、抽象的な返答で突き放すのも違う気がした。
「息子さんの周囲にいる『悪い人』を切ってほしい、と」
翔太は小さく鼻で笑った。
「……でしょうね」
諦めの笑いだった。
続けて翔太は、訥々と話し始めた。
「母は、僕が小さい頃からずっと、『あなたのためを思って』と言い続けてきた人です。学校、習い事、進路、友達。全部、母が決めました。僕が決めたことは、たぶん、一度もありません」
翔太は両手でコーヒーカップを握っていた。その指が微かに白い。
「高校までは、それでもよかったんです。母の言う通りにすれば、母は笑ってくれたし、家の中は平和だった。……でも、大学に入ってから、少しずつ気づき始めました。僕の友達は、僕よりずっと、自分のことを自分で決めている。当たり前のはずのことが、僕には、まったくできていなかったんです」
咲良は黙って聞いていた。カフェの奥で、グラスが触れ合う涼しい音が小さく鳴った。
「最近、アルバイトのシフトを増やしています。家にあまり、いたくないから。母に、進路の話を聞かれるのが、きつくて。『大学院どうするの』『就職はどこを受けるの』。何を答えても、最終的には母が決めたい答えに、誘導されていくから」
翔太の糸が、言葉に合わせて震える幅を広げた。
「母を、切ってほしいんですか」
咲良は静かに尋ねた。
翔太は顔を上げた。目の奥に、驚きと、怯えが、同じだけの濃さで浮かんでいた。
「……切る、と言うと」
「ご依頼の選択肢として、申し上げています。お母様との縁を完全に断つこともできます。ただ、それはあまり、お勧めしません」
「どうしてですか」
咲良は一呼吸、置いた。
「あなたと、お母様の間に伸びている糸は、黒一色ではないからです。銀も入っています。銀は家族の絆の色。あなたはお母様を、まだ『大切な人』だと感じている。その感覚は、黒い部分と一緒に断つことはできないんです」
翔太は俯いた。
彼の膝の上に、咲良の視線はあえて留まらなかった。肩の震えだけで、十分だった。
「切りたい、わけじゃ、ないんです」
絞り出すような声だった。
「ただ、『あなたのため』という言葉が、母の口から出なくなる方法があるなら、知りたかった。母を失くしたいわけじゃない」
咲良は微かに頷いた。視える糸が、答えそのものだった。翔太の側からの糸は、細い銀の束と、細い黒の束で構成されていた。二つはもつれ合っているが、完全には一体化していない。まだ、編み直せる余地が、ある。
「……一つ、ご提案があります」
咲良は声の温度を落とした。
「黒い糸の、支配の部分だけを、選んで断つことができます。銀の家族の糸は、残します。そうすれば、お母様との関係そのものは維持されます。ただ、お母様はしばらく『あなたを支配する感覚』を失って、混乱されるでしょう。『あなたのためを思って』が、根拠なく口から出なくなる。そのとき、あなたがお母様とどう付き合っていくかは、あなたが決めるしかない」
翔太は数秒、黙った。
「……怖いです」
正直な声だった。
「母が、僕の知らない母になるかもしれない。でも——たぶん、それでいいんだと、思います」
翔太は顔を上げた。目に、微かに光があった。震えは、まだある。震えたまま、前を向いた。
「お願いします」
「承ります」
咲良は静かに言った。
「ただし、一度お母様を交えてお話しさせていただきたいので、来週土曜日、お約束のとおり、事務所にお二人で来てください。糸を断つ場所は、お二人が一緒にいる場所のほうが、私の負担も少なくて済みます」
翔太は頷いた。何度も、小さく頷いた。薄い肩が、さっきよりも前に出ていた。
テーブルの端に残っていたコーヒーを、翔太はようやく口に運んだ。氷が解けて薄まった苦さが、ゆっくり彼の内側を通っていったように、咲良には見えた。
会計の際、カウンターの奥にいた若いアルバイト店員——柊、という名札の青年が、咲良に伝票を渡してきた。
「楠さん、ですよね」
咲良がテーブルの上に置いて忘れた名刺入れ——その一番上に、咲良の名前が印字された名刺が顔を出していた。蓮はそれを指先で示し、慎重に咲良に返した。
名前を呼ばれて、咲良は少し身構えた。翔太はすでに先に店を出て、通りのほうへ歩き去っている。
柊蓮と名札に読める青年は、少しためらってから、声を抑えて言った。
「……あの、変なこと聞きます」
蓮は伝票を差し出した手をカウンターに戻し、咲良と視線を合わせた。
「さっき、テーブル席で、一瞬——楠さん、空気に向かって、何かを指でつまむような仕草をされましたよね」
咲良の背筋が、わずかに冷えた。
「……気のせいだと思いますが」
「すみません、僕の勘違いなら、本当にすみません」
蓮は手のひらを、謝罪するように少しだけ上げた。
「でも、もう一つ、聞いてもいいですか。さっきのお客さん——あの若い男性、席に着いたときは肩がずっと震えていたんです。でも、楠さんと話し終わる頃には、震えが止まっていました」
咲良は柊蓮という青年の目を見た。
蓮の視線は、好奇心というよりも、もっと静かな——何かを確かめたい、という性質のものだった。
視界の端で、蓮のほうから咲良に向かって、真新しい白い糸が一本、すっと伸びるのが視えた。出会ったばかりの、まだ色の定まらない縁。彼の視線に、害意はなかった。
「……あなたは」
咲良は声を整えて、ゆっくり尋ねた。
「何か、仕事の相談ですか」
「いえ、違います」
蓮は首を振り、少し早口になって、カウンターの下で拳を軽く握ったように見えた。
「相談じゃなくて——お願いに、近いです」
蓮は一つ、息を吸った。
「俺、能力とか、何も持ってないんですけど。楠さんがやってる仕事に、俺にも何かできることありませんか」
伝票越しに差し出された言葉が、カフェの白い光の中に、しばらく宙に浮いていた。
咲良は、すぐには答えられなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ついに、蓮が登場しました。
この話の裏話を一つだけ。蓮の初登場シーンは、本人がいる場所に主人公が来る、という設計にしています。縁切り屋の側が誰かを「見つけに行く」のではなく、能力のない一人の大学生が、たまたま目撃して、たまたま手を挙げる。その偶然性が、この物語のテーマ——「能力がなくても、人は人の隣に立てる」に関わっています。
翔太の糸の描写もこだわった箇所です。和子の側は太い黒が混じって脈打っていたのに対し、翔太の側は「震えている」。糸の質感を「震え」で描くと、本人がどれほど長く神経を張り詰めてきたかが、読者の身体感覚に届く気がしました。愛情と恐怖が螺旋状に絡む、というのは縁切り屋の仕事でいちばん難しいタイプの糸です。
次話、ブラック企業のパワハラ案件。蓮はまだ助手ではないので、事務所にいません。ただ、カフェで交わしたあの一言が、咲良の中で、少しずつ形を変えていきます。
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