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縁切り屋と呼ばれていますが、私が断つのは「悪縁」だけです——なお、自分の赤い糸は見えません  作者: 歩人


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第3話: 銀色が濁るとき

 十時五分前、すりガラスの扉を叩く音がした。


 楠咲良くすのきさくらは腕時計に目を落とす。面談の予約は十時ちょうど。五分前の来訪は、内側の焦りがそのまま身体の速度に出ている人の歩幅だった。

 扉を開けると、電話口の声と同じ女性が立っていた。


「あの、中村です。お電話した——」

「中村さんですね。お待ちしていました」


 中村和子は五十代後半、きちんと整えた黒髪にストールを羽織った、どこの街でも見かける控えめな母親の姿をしていた。品のあるベージュのカーディガン、磨かれた革靴。身なりには隙がない。ただ、ハンドバッグを握る指が白くなるほど力が入っていた。持ち手ごとこの事務所に縋りに来た、という印象だった。


 面談スペースに案内しながら、咲良はさりげなく視る。

 和子の周囲に伸びている糸は、一本だけ——斜め前方、斜め上に向かって。部屋の外へ、この世田谷の空気の向こう、どこか遠くに向かって伸びている、銀色の、ひどく濁った糸。


 黒が混じっている。銀の中に黒が絡まり合って、まるで染料が不完全に溶け込んだように、斑になっている。咲良の目には、それがほとんど生きもののように、ゆっくりと脈打って見えた。ドライフラワーの一輪が挿してある壁のあたりで、糸は微かに揺れ、また別の方角へと流れ直していく。


 咲良は無表情のまま、冷やした煎茶を湯呑に注いで出した。和子が一口も口をつけないまま、両手で湯呑の表面を撫でるように包み込むのを、咲良は視界の端で見ていた。




「息子が、私の目を見なくなったんです」


 和子は最初のひと言を、電話と同じ場所から始めた。ただし今日はそのあとに続きがあった。


「最近、家でも会話がないんです。ご飯のときも、スマホを見ています。進路の話をしようとしても『うるさい』って、それだけで部屋に行ってしまう」


 咲良は小さく頷いた。


「息子さんは、おいくつですか」

「二十一です。都内の大学の三年生で。……私の自慢の息子なんです。小さい頃からずっと、一生懸命育ててきて。医学部は無理でしたけど、ちゃんと四年制の、そこそこ名の通った大学に入って」


 和子の声に、微かに震えが混じった。


「それが最近、変なんです。アルバイト先のシフトを増やして、家にほとんどいなくて。……私、悪いことを教えた覚えはないんです。きちんと育ててきたつもりです」


 咲良は黙って聞いていた。

 和子が「きちんと育ててきた」と言うたびに、銀と黒の斑模様が、少し強く脈打つのが視えた。黒は悪縁の色——この場合は支配の、色。


「……ご相談というのは、具体的に、どういうことでしょうか」


 咲良は静かに尋ねた。和子は少しためらってから、言った。


「噂を、聞いたんです。ご近所のお友達の奥さんから。楠さんは——『縁を断てる』と」

「……ええ」

「息子に、悪い人が関わっていないか、視ていただきたいんです。最近、息子を変えた誰か。その悪縁を切っていただきたくて」


 咲良はゆっくりとペンを置いた。

 和子は身を乗り出して続けた。


「女の子かもしれません。それか、大学の変な先輩とか。息子が私に隠れて会っているのは確かです。彼の言葉遣いも変わりました。前は『お母さん』と呼んでくれていたのが、今は『母さん』になって……そういうの、関わる相手で変わるじゃないですか」


「変わる、ですね」


 咲良は相づちに見える言葉を挟んだ。頭の中では、別のことを考えていた。

 和子の糸。濁った銀。銀は家族の絆の色。黒は支配の色。二つが染み合って、ほどけないほど絡まっている。この状態は——糸辞典の中で、咲良が一度だけ出会ったことがある模様に近かった。

 「毒親」と呼ばれる関係の、典型の一つ。

 ただし、厄介なのは。


 和子の側から伸びる糸は、太い。太いけれど、色の中に「愛情」も確かに混じっている。子を思う気持ちが偽物かと問われれば、そうではない。偽物ではない愛情が、いつの間にか支配の形をとってしまっている——そういう糸だった。


「中村さん」


 咲良は呼吸を一つ、深くした。


「ご相談のお気持ちは、よく分かりました。ただ、一度で結論を出すのは、難しいかもしれません」

「……はい」

「息子さんが変わった原因が、必ずしも『外部の誰か』とは限りません。ご家庭の中で、お二人の関係そのものが少しずつ形を変えてきた可能性もあります。そのどちらなのかを見極めないと、断つべきではない糸を断ってしまうかもしれない」


 和子の表情が、強ばった。


「……それは、私が悪いということですか」

「そうは申していません」


 咲良は即座に、しかし穏やかに否定した。


「誰かが悪いという話ではありません。人と人との関係は、片方だけの責任で歪むものではないので。ただ、慎重にやりたい、というだけのことです」


 和子は数秒、黙った。膝の上で、スカートの生地をつまんでは離すのを繰り返していた。


 それから、声が変わった。


「楠さん。正直に、お話していいですか」


 咲良は頷く。


「私、あの子がいないと、駄目なんです」


 声が、低く、少し早口になった。


「夫とは、あの子が五つのときに離婚しました。それからずっと、二人でやってきたんです。私が働いて、あの子を育てて、進学させて。それだけが私の人生だった。それが全部、間違いじゃないって、あの子の存在だけが、証明してくれていたんです」


 和子の膝の上で、指が強く握りしめられていた。


「だから、あの子が変な人と関わって、遠くに行ってしまうのが、怖いんです。楠さん。お願いします。あの子の周りから、私以外の人を、切ってください」


 ——私以外の人を、切ってください。


 咲良は耳の奥で、その言葉が響くのを聞いた。

 和子の糸の、黒い部分が、さっきよりも濃く映って視える気がした。




 咲良は表情を整えてから、ゆっくりと口を開いた。


「中村さん、一度持ち帰らせてください」


 和子は顔を上げた。


「すぐに『やる』とも『やらない』とも、申し上げられません。ただ、一つだけお願いしたいことがあります」

「……はい」

「息子さんと、私を会わせていただけないでしょうか」


 和子の表情に、戸惑いが広がった。


「息子に? どうしてですか」

「私の仕事は、糸を視ることです。中村さんの糸は視えました。でも、もう一方の端——息子さんの側から、この関係がどう見えているかを、私は視ていません。両側を視ないと、どの糸が『悪縁』でどの糸がそうでないのか、判断できないんです」


 和子は少しためらってから、小さく頷いた。


「……連れてきます。来週の土曜日、なら。あの子の休みに」

「お願いします」

「でも、楠さん」


 和子は顔を上げた。目の奥に、咲良が見慣れない色があった。


「あの子に、余計なことは吹き込まないでください。『親の愛情が重い』とか、そういうことは——言わないでくださいね」

「私は誰にも、何も吹き込みません」


 咲良は穏やかに答えた。


「糸を視るだけです」


 和子は数秒、咲良の目を見つめた。それから目を逸らし、深く頭を下げて、帰り支度を始めた。

 扉の向こうに消えていく背中の、銀と黒の斑模様は、扉が閉じる最後の瞬間まで、ゆっくりと脈打っていた。




 午後、事務所には来客の予定はなかった。


 咲良はデスクに肘をついて、中村和子の面談メモを眺めた。

 ノートには、いくつかの単語が走り書きされている。「銀に黒」「太い」「愛情+支配」「離婚・母子家庭」「私以外の人を切って」。

 最後の一文の下に、咲良は線を引いた。二重線を。


 この仕事は、断ってはならない案件だ。

 少なくとも、和子の希望する形で、息子の周囲の人間関係を「切る」ことはできない。そんなことをすれば、翔太は母親だけに繋ぎ止められた孤立した存在になる。それは支配の完成であって、救済ではない。

 かといって、和子と翔太の間の銀色を、黒いほうだけ選別して断てるかどうかも、現時点では分からなかった。あの糸は、咲良がこれまでに扱ってきた悪縁とは、別種の困難さを持っていた。


 愛情と支配を、どこで線引きするのか。


 誰かに習ったわけでもない問いが、咲良の頭の中で行き場を探して回っていた。




 こめかみを指で押さえていた咲良のスマートフォンが、不意に震えた。


 事務所に届いた公式メールの通知。件名は「ご相談について」。

 差出人のアドレスは、咲良の記憶にない個人アカウントだった。フリーメールの末尾に続くローマ字の組み合わせは、今朝の予約メモに書かれていたどの名前にも一致しない。

 咲良は軽く眉を寄せてから、メールを開いた。


 本文は、短かった。


 ——楠咲良様


 ——突然のご連絡、失礼します。中村翔太と申します。


 ——今朝、母の机に楠様の事務所の名刺が置かれているのを見かけました。「大事な相談だから」と出かけていった母の行き先が、そちらだったと察しています。


 ——母には言わず、私とだけ、一度お会いいただけないでしょうか。


 ——勝手なお願いで申し訳ありません。

 ——ただ、このままでは、壊れるのは母か、私のどちらかだと思うのです。


 咲良は、メールの画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 左手首のブレスレットの下で、傷痕がまた、微かに熱を持った。


 ——両側を視なければ、どの糸が悪縁か分からない。


 午前中に、自分で和子に伝えた言葉が、違う形で返ってきていた。

 咲良はゆっくりと息を吐き、返信画面を開いた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第3話から、二話完結の毒親案件に入りました。


この話でいちばん書きたかったのは、「愛情が偽物ではないのに、支配の形をしてしまっている糸」です。和子は悪人ではありません。子を育てるためにひとりで働いてきた、どちらかというと頑張ってきたお母さんです。でもその頑張りが、いつの間にか「あの子がいないと私は駄目なんです」に変わってしまった。銀と黒の斑模様、という表現で、その複雑さを糸に落とし込んでみました。


咲良が「一度で結論を出さない」と選んだ理由も、この難しさです。ストーカー案件は、断つか断たないかが比較的はっきりしていました。でも家族の糸は違う。断てば終わり、ではなく、断ち方を間違えたら、翔太が孤立して終わるだけです。咲良が両側を視たがるのは、彼女の慎重さではなく、失敗から学んだ姿勢なのかもしれません。


次話、翔太と会います。母親から視た翔太、翔太から視た母親——糸の「両端」を見比べる回です。


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