第2話: 断つのはあなたです
警告申出書のひな型が、画面の中でようやく整った。
楠咲良はマウスから手を離し、凝り固まった肩を回す。窓から差す午後の光が、書類棚の影を細く長く伸ばしていた。
佐藤美咲と面談してから、四日。ストーカー規制法第四条の様式に沿って、骨格を何度も組み直してきた。法律は感情を書かない。だから咲良が感情を削り、事実だけを残す。削れば削るほど、美咲の苦しみが紙の向こうから滲んでくる気がした。
十五時、すりガラスの扉が開く音がした。
「楠さん、こんにちは」
美咲は今日、前回より少しだけ顔色が良かった。それでも頬のこけと目の下の隈は残っている。一週間や二週間では消えない種類の疲れだ。
面談スペースに案内し、咲良は冷たい麦茶をガラスのコップに注いで出した。緊張している依頼人に熱い飲み物は向かない。
「証拠、まとめてきました。昨日の夜、ずっと」
美咲は紙袋からクリアファイルを三冊取り出した。DMスクリーンショット、待ち伏せの記録、同僚が偶然撮影した野上の動画。
咲良はファイルを順番にめくった。DMの文面は一見穏やかだった。「元気?」「最近どう?」「会いたい」。だが回数と頻度が意図を滲ませる。一日五通、十通。既読がつくまでスタンプだけが並び、既読がついた瞬間さらに増える。
日付は綺麗に並んでいた。美咲が整理に費やした時間を思う。この作業は、被害をもう一度なぞる作業だ。
「よくここまで、まとめてくださいました」
咲良は申出書のドラフトを美咲の前に置いた。
「一緒に確認していただけますか。事実と違う部分がないか、表現が強すぎたり弱すぎたりしないか」
美咲は時間をかけて文面を読み、何度か「ここ、もう少し正確に書きたいです」と小さく申告した。その一つひとつを咲良は書き直していく。
警察に提出する書類は、美咲自身の言葉で書かれるべきものだった。自分で書いた申出書を持って警察に行く——その過程自体が、「別れる」と決めた意志を彼女の中に定着させていくはずだった。
確認を終えたあと、咲良は麦茶のコップを置き直した。
「もう一つ、お話があります」
美咲が顔を上げる。
「前回お話しした、紫の糸のことです」
美咲は無言で頷いた。目の奥に、警戒でも拒絶でもない、静かな覚悟のようなものが浮かんでいた。
「糸を断つためには、野上さんと物理的に近い場所にいる必要があります。数メートル以内。佐藤さんの安全を考えると、家や職場の近くで接触するのは避けたい」
咲良は少しだけ身を乗り出した。
「明日、警察署に警告申出書を提出します。その同伴に、私が付き添います。過去に三回、帰宅ルートで待ち伏せがあったと仰いましたね」
「はい」
「SNSや行動パターンから、彼が佐藤さんの動きをある程度把握していると考えるのが自然です。警察署に行くとなれば、先回りして近くに現れる可能性が高い」
美咲の指先が、微かに震えた。
「怖いです。正直」
「怖くて当然です」
咲良は一拍置いた。声の温度を変える。
「だから、申し上げています。私が隣にいます。紫の糸を断つのは、私にしかできない仕事ですから」
美咲は長く息を吐いた。吐き切ったあと、顔を上げる。
「……お願いします」
「ありがとうございます。明日の午前十時。事務所で待ち合わせて、一緒に警察署まで歩いて向かいましょう」
面談を終え、美咲を見送った。
すりガラスの扉の向こうに消えていく美咲の背中には、相変わらず紫の太い糸が絡みついている。四日前より、ほんの少し、色が濃くなっていた。
黒に近づいている。
咲良は扉を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
翌朝、十時。
美咲は時間ぴったりに来た。きちんとしたジャケットを羽織っている。今日という日を自分の人生の節目として受け止めていることが、装いから伝わってきた。
「行きましょう」
咲良は申出書の入ったクリアファイルを鞄にしまい、扉に鍵をかけた。
四月の風は柔らかく、住宅街の塀からはみ出した八重桜が、薄紅の花びらを歩道に散らしている。並んで歩く二人の距離は、一メートルほど。咲良は美咲の歩幅に合わせた。
途中、美咲が一度だけ言った。
「楠さん、ありがとうございます」
「まだ何もしていません」
「そんなことない、です」
咲良はそれ以上、何も言わなかった。肯定も否定もしないほうが、美咲にとって楽だろうと判断した。
五分ほど歩くと、前方に警察署の低い庁舎が見えてきた。四階建ての、どこの街にもあるような平凡な建物だ。入口の脇に、地域安全のポスターが貼られている。
その手前——道を挟んだ向かいに、コンビニがある。駐車場の端、自動販売機の陰。
咲良の視界が、そこで止まった。
紫の糸が、伸びていた。
美咲の背中から斜めに走り、コンビニの自販機の陰に向かって一直線。糸の先に、男が立っていた。
スーツ姿。三十前後。清潔感のある短髪。スマートフォンを見ているふりをしているが、視線はこちらに固定されている。
野上誠一。
咲良は美咲の肘のあたりに軽く触れた。触れるか触れないか、ぎりぎりの距離感。
「佐藤さん、そのまま正面を向いて歩いてください。止まらないで」
「……え」
「いました。斜め左、コンビニの前です。見ないで、そのまま」
美咲の背中が強ばるのを、咲良は横目で確認した。だが美咲は足を止めなかった。歩き続けた。強くはなかったが、逃げ出さなかった。そのことが、咲良には美咲の現在地の高さに思えた。
「このまま警察署に入ります。入る直前、私が少しだけ足を止めます。佐藤さんは一人で先に入って、受付で『警告申出書の提出で来ました』と伝えてください。すぐに追いつきます」
「楠さん——」
「大丈夫です」
咲良は声を落とした。
「断つのは、私の仕事です」
警察署の入口まで、あと十メートル。
咲良は歩幅を少しだけ緩め、美咲の背中を先に送り出した。美咲が階段を上がり、ガラスのドアを押して中に入る。
同じタイミングで、咲良は自然に角度を変えた。
警察署の入口の手前、街路樹の根元にしゃがんで、靴紐を結ぶふりをする。視界の端で、コンビニの方向をはかる。
野上誠一は、動いた。
美咲が建物に入ったことを確認して、自分もその場を離れようとしたのだ。こちらに背を向け、コンビニの脇の通路へ入ろうとしている。
咲良は立ち上がり、何気ない足取りでそちらへ向かった。
歩道を斜めに渡る。声を出さない。急がない。ただ、紫の糸が通っている経路を、自分の体でなぞっていく。
糸は、伸びている。二点を結ぶ紫の縄は、建物の壁と自動ドアを越え、物理法則を無視して空中を貫いていた。咲良はその糸の中ほど——自分の手が届く位置に歩み寄った。
三メートル。二メートル。
野上が、ふと振り返った。見知らぬ女が自分のほうに歩いてくる違和感に反応したのだろう。清潔感のある顔立ちの奥で、目だけが細められる。
咲良は視線を合わせなかった。ただ糸を見た。張り詰め、脈打ち、黒く濁りはじめている一本。
右手を空中にゆっくりと伸ばす。指先が糸の一点に触れる。物理的な感触はない。触れるのは、「縁」のほうの層だ。
紫は太く、根が深く、野上の執着は長い時間をかけて育てられていた。指先に鈍い圧がかかる。
——断つかどうかを決めたのは、美咲だ。
迷いのない声で「断ってほしい」と言った美咲の顔が浮かぶ。咲良はただ、美咲が選んだ「別れ」を、この世界の層にも等しく通すだけだ。
指先に力を込めた。
紫の糸が——断たれた。
音はしなかった。
視覚的にも、派手な光はない。ただ、張り詰めていた縄が、中ほどで静かに緩み、両端に向かって滑り落ちるようにほどけていった。美咲側に残った半分は、その瞬間に消えた。もともと美咲からは灰色の細い糸しか伸びていなかったから、失うものは何もなかった。
野上側に残った半分は、風に流された紙屑のように、数秒だけ宙に漂い、それから霧散した。
同時に、咲良のこめかみに、鈍い痛みが走った。
細い針が一本、頭の中にまっすぐ突き刺さったような感覚。視界の端がちかちかと明滅する。能力の反動。太い悪縁ほど代償は大きい。
咲良は街路樹に片手をついて呼吸を整えた。額に汗が浮いている。
——大丈夫。立っていられる範囲の痛みだ。
顔を上げると、野上がこちらを見ていた。
ただし、表情が、さっきまでと違っていた。
目の焦点が、うまく合っていない。警戒でも敵意でもない、もっと単純な——「困惑」の色。
野上は、空中のどこか一点を見つめた。それから、自分が立っている場所を見回した。コンビニの駐車場。警察署の向かい。青い空。通り過ぎる車。
彼の口が、小さく動いた。
咲良の耳には届かなかったが、唇の形から察することはできた。
——俺、なんでこんなところに、いるんだ?
野上は数秒、その場に立ち尽くした。
それからもう一度、警察署のほうを見た。建物そのものを、だ。美咲が入っていったガラスのドアの向こうを見ていたさっきまでの視線とは、まったく違っていた。建物を見ているのに、そこに「誰か」を探す動きがない。
誰を追っていたのか、思い出せていない。
野上は軽く首を振り、スマートフォンを見直し、それから何事もなかったように踵を返した。コンビニには入らず、通路の奥の駐輪場へ歩いていく。自分の自転車か何かに向かっているだけの、ただの一人の男の背中だった。
咲良は街路樹の根元にもたれたまま、それを見送った。
記憶が消えたわけでも、人格が変わったわけでもない。ただ美咲に向けていた「執着」という一点だけが抜け落ち、抜け落ちた分だけ、野上は「なぜ自分がここにいるのか」の説明を失った。
それだけだ。
彼が別の悪縁を他の誰かと結ぶことを、咲良は止められない。けれど、美咲の背中にまとわりついていた一本は——もう、ない。
こめかみの痛みを押さえながら、咲良は踵を返した。
警察署の方向へ、ゆっくりと歩き出す。
受付に戻ると、美咲は申出書を手渡しているところだった。
咲良が入ってきた気配に振り返り、縋るような目を向ける。咲良は小さく頷いた。
面談室に通されるまでの待ち時間、美咲は小声で聞いた。
「……終わったんですか」
「糸は断ちました。彼はもう、こちらに戻ってくる様子はありません」
「じゃあ、もう——」
「法的な手続きは、これから始まります。糸を断ったことと、警察が警告を出すことは、別です。両方が必要です」
美咲は数秒、何かを飲み込んでから言った。
「……はい。わかってます」
その声は、弱々しくはなかった。
面談室では担当の刑事が一通り話を聞いてくれた。咲良は同席して必要な補足だけを行い、美咲は途中で何度も声を詰まらせながら、自分の言葉で最後まで話しきった。手続きは今日、確かに一歩進んだ。
警察署を出た頃、空には薄い雲が広がっていた。
四月の午後の風が、並んで歩く二人の間を静かに通り抜けていく。咲良は意識的にゆっくり歩いた。美咲が何かを言いたそうにしているのが、横顔でわかったからだ。
信号を二つ渡ったあたりで、美咲が口を開いた。
「楠さん」
「はい」
「さっき、警察署に入る前に——楠さん、一瞬足を止めましたよね」
「はい」
「あれが、糸を、断ってくれた瞬間ですか」
「そうです」
美咲は、ほうっと長い息を吐いた。
「……不思議なんです」
「何がですか」
「背中が、軽いんです。実際にそう感じるっていうのが、こんなに違うものだと思わなかった」
咲良は、頷くだけに留めた。
そういう感覚を言葉で拾おうとすると、かえって損なわれることがある。
数歩進んでから、咲良は静かに言った。
「佐藤さん」
「はい」
「断ったのは、私の能力です。でも——断つかどうかを決めたのは、あなたです」
美咲の足が、一瞬だけ止まった。
「最初に私の事務所に来てくれた日、あなたは自分で、別れたいと決めていた。その決断がなかったら、私は何もしていません。法律も、能力も、結局のところ、あなたが『別れる』と決めた選択の後始末です」
咲良は前を向いたまま続けた。
「私はその後始末が上手なだけの、行政書士です」
美咲は泣かなかった。代わりに、少しだけ笑った。頬のこけも隈も変わらないのに、口の端だけが、ほんの少し上がった。
「……その言い方、ずるいですよ」
「ずるい、というと」
「私が決めたことにして、手柄を全部、私に渡そうとしてる」
「事実を言っているだけです」
別れ際、美咲は深く頭を下げて、自分のマンションのほうへ歩き去っていった。背中に紫の糸はもう、ない。残された灰色の細い糸は、そのうち自然に消えていくだろう。かつて確かにあった関係の残響が、少しずつ空気に溶けていくように。
事務所に戻り、扉を閉めた瞬間、咲良はようやく息を吐いた。
こめかみの奥の鈍い痛み。右足に残る違和感。左手首の傷痕が、黒いブレスレットの下でちくちくと疼いている。
椅子に沈み込み、水道水をコップ一杯、ゆっくり飲んだ。
糸を断っただけでは、何も終わらない。
野上は別の誰かに同じ執着を向けるかもしれない。美咲が深夜に思い出して泣く夜も、これからきっとある。紫の糸が消えても、彼女の心の中の景色がすぐに変わるわけではない。
「心」は、咲良の仕事ではなかった。縁は視える、糸は断てる。だが、人が人生をどう立て直していくかは、糸の外側の話だ。
——それでも。
歩道の上で口の端を持ち上げた美咲の顔が、浮かんだ。
紫の糸を断ったことでも、申出書を完成させたことでもなく——美咲が自分の足で警察署を出て、笑えたこと。その一点だけが、たぶん今日の報酬だった。
縁切り屋の仕事は、そういう形でしか報酬を受け取れない。だからこそ、咲良はこれをやめられないのだ。
目を閉じる。こめかみの痛みが、少しずつ遠ざかっていく。
そのとき、デスクの上の電話が鳴った。
咲良は一拍置いてから、受話器を取った。
「はい、さくら行政書士事務所です」
受話器の向こうから、女性の声が聞こえた。年齢は五十代後半だろうか。少しかすれた、いかにも疲れたという響きの声だった。
「あの——お電話、初めてで、すみません。息子の、進路のことで、困っていて」
女性は、そこで一度言葉を切った。
「いえ、正確には——息子の、ではなく、私と息子の、その……関係のことで。うちは、その、……人から見たら、たぶん、普通の家庭に見えると思うんです。でも」
咲良は静かにペンを取り、白いメモ用紙に日付を書き込んだ。
受話器の向こうで、女性はもう一度、息を吸い直した。
「息子が、最近、私の目を見なくなったんです」
咲良はゆっくりとまばたきをした。
まだ電話越しなので、糸は見えない。母親と息子のあいだに、どんな色の、どんな太さの糸が伸びているのか。銀か、黒か、あるいは銀が黒く濁り始めている、あの見慣れた模様か。
左手首のブレスレットの下で、傷痕がまた、熱を持った。
「よろしければ、一度、事務所にいらしてください」
咲良は言った。
「お話、ゆっくりうかがいます」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第2話で、最初の依頼の「解決編」をお届けしました。
設計の裏話を一つだけ。この話でこだわったのは、野上に対して「悪人」として派手な裁きを下さないという点でした。糸を断った瞬間、彼はただ「なぜ自分がここにいるのか」が一瞬わからなくなるだけ。記憶を奪うわけでも、人格を歪めるわけでもありません。執着という一点だけを、彼の人生のテーブルから静かに片付ける。縁切り屋の仕事は、この静かさが核だと思っています。派手に断罪しないほうが、「別れを選ぶ権利」の重さがかえって残ると信じて書きました。
それと、咲良が美咲に向けた「断つかどうかを決めたのは、あなたです」という一言。これは今後、何度も何度も繰り返される信条です。能力持ちの主人公が陥りがちな「救済者ポジション」に、咲良は立たない。あくまで「後始末が上手な行政書士」。この距離感を崩さずに、四十話前後を走り切れたらと思っています。
次話、電話の向こうの女性が事務所にやってきます。息子の目を見られなくなった母親と、母親の目を見なくなった息子。銀の糸が濁るとき——「家族」という最も断ちにくい縁の話に入ります。
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