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縁切り屋と呼ばれていますが、私が断つのは「悪縁」だけです——なお、自分の赤い糸は見えません  作者: 歩人


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第1話: 黒い糸が見える

 朝の小田急線は、糸だらけだった。


 楠咲良くすのきさくらは吊革を握りながら、車内に張り巡らされた無数の糸をぼんやりと眺めていた。

 隣に座る中年の夫婦。二人の間には薄紅と金色が螺旋状に絡み合った太い糸が伸びている。恋慕と信頼。長い年月をかけて編まれた、温かい色だ。夫が妻の肩に触れると、糸がかすかに脈打つ。

 向かいの座席では、スーツ姿の男が隣の女性に話しかけている。男から女に向かって、薄い紫の糸が伸びていた。執着の色。女の側からは何も出ていない——灰色の、髪の毛ほどの細さしかない。

 関わらないほうがいい相手だ、と咲良は思う。だが、言わない。

 これは咲良の仕事ではない。


 人と人の間に「糸」が見える。

 物心ついた頃からずっとそうだった。色で感情がわかる。太さで絆の強さがわかる。張り具合で関係が健全かどうかまで、読み取れる。

 金色は信頼。薄紅は恋慕。青は友情。銀は家族の絆。

 そして黒——支配、依存、束縛。断つべき縁。

 咲良がこの能力を「仕事」にしたのは、二年前のことだった。




 世田谷区の住宅街を五分ほど歩くと、築四十年の木造二階建てが見えてくる。すりガラスの扉の横に、控えめな看板。


 さくら行政書士事務所。


 元は花屋だった物件を改装した、小さな事務所だ。入口で靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。古い木造家屋特有の、土と木が混じった乾いた匂いがする。四月の柔らかい朝陽が、すりガラスの扉を透かして室内に斜めに差し込んでいた。

 コーヒーメーカーのスイッチを入れると、すぐに香ばしい香りが狭い空間に広がった。

 壁にはドライフラワーが一輪。前の店の名残を、咲良はなんとなく捨てられずにいる。花があった場所には、今は書類と法律の匂いが満ちている。それでも咲良は、この一輪を捨てる気になれなかった。ここに来る人の多くは、花屋の名残に一瞬だけ視線を止める。その一瞬の緩みが、相談を話しやすくする気がしていた。


 L字型のデスクに着き、パソコンを立ち上げる。法律書の並んだ本棚。整理された書類棚。行政書士の資格証書。

 表向きは、離婚相談や相続手続きを扱う、ごく普通の行政書士事務所。

 裏では——「縁切り屋」。

 口コミで広まった、その呼び名を咲良自身は好んでいない。断つのは「悪縁」だけだ。それも、本人が望んだ場合に限る。


 午前中は書類仕事に費やした。内容証明の文面を整え、法務局への申請書類をまとめる。昼過ぎに近所のコンビニで買ったおにぎりをデスクで食べながら、午後の予定を確認した。

 十四時に一件、新規相談の予約が入っている。

 佐藤美咲。二十八歳。会社員。

 電話口の声は低く、かすれていた。「人に相談できないことがあるんです」と、その一言だけ。

 咲良はそれだけで、おおよその見当がついていた。「人に相談できないこと」を抱えて、この事務所に辿り着く人は、ほぼ例外なく——糸に絡まれている。




 十四時ちょうどに、すりガラスの扉が開いた。


 佐藤美咲は、やつれていた。

 同い年のはずだが、頬がこけて、目の下に濃い隈がある。黒髪はきちんとまとめているのに、服は皺だらけのカーディガン。人前に出る気力が残っていないことが、服装に出ていた。

 面談スペースに案内する。パーテーションで仕切られた小さな空間。丸テーブルにティッシュボックスが置いてある。泣く依頼人が多い。咲良はそれを隠す必要はないと思っていた。


「楠です。今日はお越しいただき、ありがとうございます」


 咲良は名刺を差し出しながら、視た。

 佐藤美咲の周囲に張り付いた糸を。


 息が詰まりそうになった。


 紫色の太い糸が、美咲の背中から真後ろに向かって伸びていた。縄ほどの太さ。執着と独占欲の色。脈打つように明滅を繰り返している。

 美咲の側からは——ほつれかけた灰色の糸が、かろうじて一本、存在を留めているだけだった。もう何も感じていない。関係が終わっていることは明白だった。

 なのに、紫の糸は太く、強く、しつこく美咲に巻きついている。

 一方的な執着。しかも色の濃さが増している。紫から黒へ、変わりつつあった。


 支配に、変質しかけている。


「……楠さん?」


 美咲の声で我に返った。咲良は表情を整える。


「すみません。お話を聞かせてください」


 美咲は俯いたまま、ぽつりぽつりと語り始めた。


 元交際相手の名は、野上誠一。八ヶ月前に別れた。最初は優しかった。だんだん束縛が強くなり、友人との食事にも「誰と?」「何時に帰る?」と詰問されるようになった。

 別れを切り出した。相手は受け入れなかった。

 それから、つきまとい行為が始まった。


「野上さんからのSNSのDMが、毎日来ます。十通、二十通。帰宅ルートで待ち伏せされたことも、三回」


 美咲の声は平坦だった。感情を摩耗させた人間特有の、乾いた話し方。


「警察には相談しました。でも……『直接的な暴力がないと動きにくい』と。彼は清潔感があって、人当たりがいいんです。周りから見ると、普通の人にしか見えない。だから余計に」


 咲良は黙って聞いていた。メモを取りながら、同時に糸を視ていた。

 美咲が話すたびに、背中の紫の糸が微かに震える。物理的に何キロも離れた場所にいるはずの男と、糸は繋がっている。距離は関係ない。縁は距離を超える。

 ——でも、断てるのは、近くにいるときだけ。

 咲良は胸の内でそう呟いた。数メートル以内。自分の手が届く範囲でなければ、糸は斬れない。つまり、今この瞬間、美咲の背中に巻きついた紫を切り離すことはできない。

 どこかで、あの男と同じ空間に立たなければならない。それも、美咲を守れる状況で。


「佐藤さん」


 咲良は穏やかに、だが明確に言った。


「行政書士として、私にできることが二つあります。一つは、ストーカー規制法に基づく警告申出書を作成し、警察に提出すること。もう一つは、必要に応じて接近禁止の仮処分申請を裁判所に出す準備をすること。弁護士ではないので代理人にはなれませんが、書類の整備と手続きの案内はできます」


「……それで、止まりますか」


 美咲の目が、初めて咲良を見た。疑いと、微かな期待が混じった目。


「法的措置は物理的な距離を確保するためのものです。それだけでは足りない場合もある」


 咲良は一拍置いた。


「もう一つ、私にできることがあります。ただ、信じてもらえないかもしれません」


 美咲は黙って待っていた。


「佐藤さん。あなたの背中に、紫色の太い糸が絡みついています」


 沈黙。

 予想していた反応だった。怪訝、困惑、あるいは席を立つ。大抵はそのどれかだ。


 だが美咲は、泣いた。


「……やっぱり、あるんですね」


 声が震えていた。


「ずっと感じてたんです。何かが——何かがまとわりついてる感じ。背中が重い。シャワーを浴びても取れない。引っ越しても、電話番号を変えても、ずっと」


 ティッシュを取り、美咲に差し出す。咲良は待った。泣いている相手を急かさない。それが咲良のやり方だった。


 美咲が少し落ち着いてから、咲良は続けた。


「この糸を断つことができます。断てば、彼があなたに向けている執着は、根元から消える。ただし」


 ここが大事だった。


「断つかどうかは、あなたが決めてください。私はただ、断てるということをお伝えしているだけです」


 美咲は涙を拭い、まっすぐ咲良を見た。


「断ってほしい」


 迷いのない声だった。


「でも——法的な手続きも、並行してお願いできますか。糸がなくなっても、彼は現実に存在するから」


 咲良は、少し驚いた。

 依頼人の中には、能力にすがって法的手続きを軽んじる人もいる。糸さえ断てば全て解決すると思い込む人もいる。だが美咲は違った。

 能力と法律の両方が必要だと、初めて会った日に理解している。


「もちろんです」


 咲良は頷いた。


「まず警告申出書の準備に入ります。つきまとい行為の記録——日時、場所、内容をまとめた一覧が必要です。SNSのDMのスクリーンショットも証拠になります。次回までに整理してきていただけますか」


「はい」


「糸を断つのは、相手と物理的に近い場所にいる必要があります。タイミングは、法的手続きと合わせて調整しましょう」


 面談を終え、美咲を見送った。

 すりガラスの扉が閉まる。美咲の背中から伸びた紫の糸が、扉の向こうに消えていった。




 日が暮れた事務所で、咲良はひとりコーヒーを飲んでいた。


 窓から西日が差し込み、デスクの上に長い影を落としている。コーヒーメーカーの保温ランプだけが、薄暗い室内にぼんやりと光っていた。


 左手首のブレスレットに、無意識に触れた。

 黒い革のバンド。その下に、薄い傷痕がある。母の——封印の、痕跡。


 咲良はときどき、こうして自分の周囲を視る。

 街ですれ違う人々の糸は、鮮明に視える。色も太さも状態も、手に取るようにわかる。

 なのに、自分自身の糸だけが——何も、視えない。


 誰かと繋がっているのかどうかすら、わからない。


 母も、同じだったのだろうか。

 七歳のあの日、母が最後に微笑んで——


「……考えるのは、やめよう」


 コーヒーを飲み干し、カップを洗う。コーヒーメーカーの電源を切る。事務所の鍵を閉める。

 二階の自室に上がると、壁に飾った母の写真が目に入った。若い頃の咲耶。黒髪のロングヘア。穏やかだが、芯の強そうな目。


 咲良はその写真に背を向けて、ベッドに倒れ込んだ。


 明日から、佐藤美咲の案件が始まる。

 紫の糸を断つ。法的手続きを整える。彼女が「別れ」を選んだことを、制度と能力の両方で守る。


 それが、縁切り屋の仕事だ。


 ただし——糸を断つには、男と同じ空間に立たなければならない。

 野上誠一は美咲の帰宅ルートを把握している。待ち伏せされた、三回——美咲の言葉を咲良は頭の中で反芻する。つまり、警察への同伴日や証拠収集の動きに合わせれば、三人が数メートル以内に揃う一瞬を、こちらから設計することはできる。

 ノートの白紙ページに手順を書き出していく。まだ会ってもいない男の気配が、文字の先にじんわりと滲んでいく気がした。


 目を閉じる。左手首が、微かに熱を持っている気がした。

 いつものことだ。疲れると、傷痕が疼く。


 母が遺したもの。

 その意味を、咲良はまだ知らない。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第1話、ということで——「縁の糸が見える女」の日常をお届けしました。


実はこの作品、最初に決まったのは「行政書士事務所」という舞台でした。ファンタジーの能力だけで解決するんじゃなくて、ちゃんと法律と並行して動く主人公が書きたかった。能力で糸を断っても、ストーカーは現実に存在する。だから法的措置も必要。その二重構造を、美咲さんが「糸がなくなっても、彼は現実に存在するから」と自分で言ってくれた瞬間、このキャラクターの強さが見えた気がしました。


咲良が「断つかどうかは、あなたが決めてください」と言うシーン。これが彼女の信条のすべてです。縁切り屋は決して「正しい選択」を押し付けない。選ぶのは、いつも本人。


……でも、自分自身の糸だけは見えない咲良が、この先どうなっていくのか。左手首の傷痕の意味が、少しずつ明らかになっていきます。


次話、紫の糸を断ちます。お楽しみに。


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