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信夫の里

「もはや人の姿に戻ることは叶わないようです。曾良君、拙者は野山で狐として生きていくことにしました。さらば――」


 諦めてはいけません、芭蕉先生! みんな芭蕉先生の帰りを待っているんです! 戻ってください!


 必死で呼びかけているはずなのに何故か声が出ず、追いかけても追いかけても狐娘芭蕉は遠ざかっていく。

 次第に狐に近づいていく芭蕉は、前脚をついて四足で走り出す。


『さびしさや狐も寒くなるままに』


 野狐と化した芭蕉の姿が、吹雪に隠されて消えていく。


「芭蕉先生ーッ!」


曾良は自分の叫び声で目を覚ました。汗で着物が貼り付いているようだ。


「大丈夫ですか、曾良君」隣で寝ていた芭蕉が心配そうに顔を覗き込んでくる。「随分と夢見が悪かったようですが……」


「え、えぇ……すみません。大したことではありません」曾良は息を整えつつ、笑って誤魔化した。


 夢で良かった、という安堵から、思わず涙が込み上げてくる。

 恥ずかしくなって、曾良は狐娘芭蕉に背を向け、帯を巻きなおした。

 障子の外は既に明るくなっており、雀の鳴き声が聞こえていた。


「朝食を食べたら出かけましょう。今日は、しのぶもじ摺りの石を見に行きますよ!」

気を取り直して、曾良は言う。


「『みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに』の石ですね!」

三尾を揺らして、急に早口になる狐娘芭蕉の姿に、思わず笑みがこぼれる曾良であった。



 元禄二年(一六八九年)五月二日


 福島の宿を出て、信夫の里に向かった。辿り着いた山陰の小さな村で、長老に石について尋ねてみるが、知らぬ存ぜぬという反応であった。

「たしかにこの辺りだと思ったのですが……観音堂の境内にもそれらしい石は見つかりませんでしたし」

「おかしいですね」

もしや、道を間違えてしまっただろうか、と思い、村を出て道を引き返そうとした時である。


「あっ! 狐が服着てる!」木陰で笠を外して涼んでいるところを、村の子どもに見つかってしまった。

「こらこら、芭蕉先生にそんな言い方……」

「まあまあ、曾良君。事実を言っているまでですよ」


 好奇心旺盛な子どもらしく、危険がないと見るや一気に駆け寄ってきて、芭蕉の肉球を触ったり、服をめくって隠していた尻尾を握るなど、やりたい放題である。


「すげー! 尻尾が三本もある!」大はしゃぎの子どもを尻尾で絡めて抱きしめてやると、たいへん喜んで「やめろ~! 獣くさい~」と言って無邪気に笑うなどした。


 たまにはこういう休憩も悪くない。満更でもなさそうな狐娘芭蕉の姿を眺めつつ、曾良はここからどうしようかと旅の予定を見直していた。


「せんせーたちは、どうしてこの里に来たの?」

しばらく遊んだ後、子どもがふと尋ねてきた。


「しのぶもじ摺りの石、という有名な石があると聞いて見に来たのです」


 昔々のことである。京の都から源融みなもとのとおるという偉い人がこの辺りを訪れた。

 一説によると、源融は光源氏のモデルとなった人物の一人ともされている。

 道に迷い、村長の家に泊めてもらった源融は、村長の娘と恋仲となるが、やがて都へ帰ることになってしまう。

 残された娘は、源融と一目会いたい一心で観音堂に願をかけ、麦草を使って石を磨き続けた。その石こそが、しのぶもじ摺りの石なのである。


「おら、その石のこと知ってるよ」

不意に子どもがそんなことを言い出すので、曾良は飲みかけた水を噴き出した。

「本当ですか!? 曾良君、行きましょう!」

「こっちこっち、ついてきて!」

子どもの後ろを追いかけて谷を下っていく。


「勝手に村の麦をちぎって石を磨いていく旅人が多くて、村の皆で石を崖から突き落としちゃったんだって」

谷底に到着すると、子どもはそう言って大きな石を紹介してくれた。


「しかし、この石の表面に磨かれたような形跡は見られないですが……」

曾良は近づいて石をよく観察する。

「転がり落ちたから、今は磨かれた面が下に向いているんだってさ」

「そういうこともあるのですか……我々も舞台を巡る上で、重々気をつけねばなりませんね」石は大きく、芭蕉が軽く押してもびくともしない。


 歌に詠まれたことで、その里の人々が迷惑をこうむることもあるとは、考えても見なかった。

 今思えば、長老の反応も当然のことである。


 「しのぶもじ摺り」という染物の技法も、既に絶えており、村には伝わっていないという。


「案内してくれてありがとう。お名前を聞いていませんでしたね」

村の子どもは「とら」と名乗った。それは奇しくも、源融を待ち続けた娘の名と同じであった。


「変わるものと変わらないもの、その違いはどこにあるのでしょうね」

とらと別れた後、田植えをする早乙女たちの手元を見ながら、芭蕉は一句を書き留めた。


『早苗とる手もとや昔しのぶ摺り』


「変わらないのは人の姿ばかり、とも思っていましたが、私自身このような姿に変わってしまいましたから、全く当てにはなりませんね」芭蕉は苦笑する。


「姿は変わっても、芭蕉先生は芭蕉先生ですよ」

芭蕉の方を振り向いた曾良は、芭蕉の尻尾が四本になっていることに気付いて、二度見した。

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