浅香山
「曾良君。ほら、見てください。尻尾で鞠を持つことができましたよ!」
ここ数日で、三尾の扱いにずいぶん慣れてきた様子の芭蕉。
須賀川の子どもたちと一緒に手鞠に興じる師匠の姿を、曾良は複雑な心境で眺めていた。
元禄二年(一六八九年)四月二十九日
天気は快晴。巳の中刻(現在の十時二十分頃)。
名残惜しそうな可伸や等躬に見送られて須賀川を出立した芭蕉たちは、滝や寺などに立ち寄りつつ五里(二十キロメートルほど)もの距離を歩いた。
日の入り前に郡山に到着すると、宿はたいへん多くの人で賑わっており、むさ苦しいほどであった。
狐の耳や尾を巧妙に隠して、曾良に付かず離れずの距離を保ちつつ宿の部屋へと入る。
「お疲れ様です、芭蕉先生」
一息ついて壁に寄り掛かった芭蕉が、そのままうたた寝を始めたため、曾良は寝ている芭蕉を抱きかかえ、布団へと運んだ。
「すまないことをしたの。我の頼み事のせいで、弟子のおぬしにも、随分と無理をさせてしもうたようじゃ」
いつの間にか九尾の狐が目を覚ましており、芭蕉の姿を借りて曾良に頭を下げる。
「……お気になさらないでください。芭蕉先生も、無理があることは承知の上で会津に行ったのですから」曾良は言葉とは裏腹に、九尾の狐という絶対の存在に対して静かな怒りを抱いていた。「無事にこうして旅が続けられているだけで十分ありがたいことです」
結果的に何も失うものはなかったし、会津での目的も無事に達成できたらしい。
芭蕉は三尾の狐娘となったが、今のところ『おくのほそ道』の旅は順調と言えるだろう。しかし……。
「くふふ……おぬしは、嘘が下手じゃのぅ。我を罵る好機であるというのに」狐娘芭蕉の姿で布団に寝転んだ九尾は、曾良を見上げつつ、この世全てを見下すかのように笑った。「まぁ、よいのじゃ。おぬしのそういう臆病な所も、我は好いておるからの?」
心を弄ばれている。曾良は自分の頬が緩みそうになるのを、両手をぐっと握りしめることで耐えた。
「そんなことより、一つお伺いしたいことがあるのですが……」
「なんじゃ? 我はいま機嫌が良い。おぬしの言うことを、なんでも聞いてやるぞ?」
「それでは……」たっぷり悩んでから、曾良は言った。「今後の『殺生石の欠片』探しの方法について、ご相談させてください」
「その言葉を待っておったぞ」九尾は目を輝かせて飛び起きた。
元禄二年(一六八九年)五月一日
本日も天気は快晴である。芭蕉と曾良は、早朝に宿を出て浅香山に登った。
古歌で「みちのくのあさかの沼の花かつみかつみる人に恋ひやわたらん」という詠み人知らずの歌があるが、その有名な沼を一望しようと考えたのだ。
「あさかの沼は……。田んぼの方が目立つ気がしますね」
「今でも少しの沼は残っていますが、ほとんどが開墾されて、田として活用されているようですね」
「そうでしたか……」やや残念そうに尻尾を垂らしている芭蕉を元気づけようと、曾良は一つ提案をした。
「今の季節なら、花かつみが見られるのではないでしょうか?」
花かつみ。それは伝説の花であった。
どんな花だったのか、芭蕉も曾良も詳しく知らない花である。
周辺の村人に尋ねて回ったが、誰一人として知っている者はいなかった。
「曾良君。この時期にこの辺りに咲いている花を全部見て回れば、かつみを見たことになりますよね?」
死んだ魚のような目をして草むらを掻き分け始めた狐娘芭蕉を見かねたのか、村人の一人が声をかけてくる。
「かつみを探しているのは、あなたたちですか?」やや恰幅の良い男性であった。
「もしや、かつみをご存じなのですか!?」
喜びのあまり、耳をぴんと立てて村人に駆け寄ろうとした芭蕉は、その直前で歩みを止める。
男の身体は透けていて、背後の浅香山がうっすらと見えていたのだ。見れば、着ている服も、ずいぶんと古そうに見えた。
「かつて、私がこの地に流された折には、ちょうど今くらいの季節……端午の節句には、菖蒲の代わりにかつみを軒にさしたものです」
それを聞いた狐娘芭蕉は、すぐさま笠を脱いで、「もしや、あなたは、実方様なのでは?」と丁寧に尋ねた。
狐娘の姿を目にした男の霊は、一瞬驚いた表情をしたものの、すぐに微笑んで頷いたのだった。
男は、藤原実方の霊と名乗り、快く花かつみを探すのを手伝ってくれた。
やがて、それらしき花が見つかったのだが、それは真菰の花であり、菖蒲とは似ても似つかない見た目であった。
「正直、私もこれがあなたたちの言う花かつみなのかどうか、自信はないのです」
実方が言うには、数百年前の記憶であるため、詳細がぼやけてしまってはっきりしないらしい。
「いえいえ、色は菖蒲と似ている気がしますし、稲のような見た目で上品な美しさを感じます」
その答えに満足げな表情を浮かべたかと思うと、実方の姿はゆっくりと薄れ、消えてしまった。
芭蕉も満足したようで、花かつみ探しに時間を掛けすぎたことに気付いて、次の目的地に急ぐことになった。
「芭蕉先生。このままだと日が暮れてしまうので、黒塚に寄るのは止めましょうか?」
「いえ、ちょっとだけ、ちょっとだけ見ていきましょう! 実方にも会えたのですから、安達原の鬼女にも会えるかもしれません!」
「あまり鬼女には会いたくないですけどね……」
少し駆け足気味のふたりは黒塚に向かったが、あいにく鬼女は留守のようで、黒塚は静寂に包まれていた。
狐娘芭蕉は、大人しく今日の宿に向かった。




