可伸庵
「それにしても、芭蕉さんまでそのような姿になっていたとは本当に驚いたよ」
須賀川の宿場の長である等躬宅に宿泊をさせてもらった翌日のこと。日中の田植え仕事から帰ってきた等躬は、芭蕉の狐娘姿を改めて見つめ、そう呟いた。
「……というからには、芭蕉先生の他にも狐娘になった方がいるのですか?」
聞き捨てならないという様子で、曾良が尋ねた。
「そういうわけではないのだが……。そうだねぇ、実際に会ってもらった方が話が早い。ご案内しよう」
元禄二年(一六八九年)四月二十三日 夕刻
宿場近くに、大きな栗の木があった。その木陰には小さな庵があり、可伸という僧が住んでいるという。
等躬の友人にして、俳人でもあるという可伸は、確かにただの人物ではなかった。
「き、狐ぇ!? なんだぁおめぇ!? 等躬の旦那から離れろ!」芭蕉の姿に怯え、栗の枝にしがみ付いて震える影は、小鳥のように小さかった。
「ちょっと、可伸さん。この方は芭蕉先生ですよ」
等躬に言われ、恐る恐るといった様子で枝の影から顔を出したのは、一寸法師ならぬ、栗鼠法師といった見た目の娘であった。
「えっ、おめが芭蕉先生……?」栗鼠娘は、芭蕉の姿を二度見して言った。
一寸(現在の約六分)ほど後のこと。芭蕉と曾良は、可伸の庵にお邪魔していた。
「つい、おっかねぇ物怪かと思ってしまって……申し訳ねぇです」ふさふさの長い尻尾が身体を覆い隠してしまうほど、深々と頭を下げる可伸。
「いえいえ、拙者がこのような姿で急に現れたのが悪かったのです」芭蕉の方が逆に恐縮してしまった。
栗鼠娘・可伸から見れば、全ての人間は大仏のごとき巨人なのである。
芭蕉が狐娘でなかったとしても、体格差だけで相当怖く感じたはずだ。
「失礼ですが、可伸さんは、どうしてそのようなお姿に……?」曾良は尋ねる。服を着た栗鼠といった姿の可伸から目が離せない曾良であった。
「恥ずかしいから、予のことをあまり見ねでくれっかし」少し照れくさそうに頭を掻いて、顔を尻尾で隠した可伸は「ええと、予がこうなった理由と言えば、話せば長くなるがよ――」と前置きをして、かつて遠方で遭遇した奇妙な石の話を始めた。
世捨て人になるべきか迷っていた可伸は、ある時、とある神社の境内で瀕死の栗鼠を拾ったのだった。
もはや助からないと判断した可伸は、栗鼠を弔ってやろうと近くを掘ったところ、埋められていた奇妙な石を掘り当ててしまい、迂闊にも栗鼠の血が付いた手で石に触れてしまった。
次の瞬間、光に包まれた可伸は意識を手放し、気が付くと栗鼠娘と化していたという。
要するに、可伸を栗鼠娘にした原因は紛れもなく、殺生石の欠片の仕業だったのである。
元禄二年(一六八九年)四月二十四日
須賀川に来て三日目の朝。旅の疲れも癒えてきた芭蕉と曾良は、泊めてくれているお礼にと、等躬の田植え仕事を手伝った。
最初は警戒して遠巻きに見ていた須賀川の人々も、せっせと稲を植える狐娘の姿に心打たれ、近づいてきてくれるようになっていった。
近づけば近づくほど、美しく愛嬌のある狐娘は人々の心を鷲づかみにした。たちまち、狐娘芭蕉の噂は須賀川中に広まっていったのである。
曾良にとって、そのことは何よりも嬉しいことであった。狐娘のままでも、芭蕉先生は俳諧師としてやっていけると確信できたからだ。
曾良は、『おくのほそ道」の旅に同行した弟子であるとともに、俳諧師・松尾芭蕉の秘書あるいはプロデューサーのような存在でもあった。
「これなら、予定通り開催できそうですね。今日の会を……!」
俳諧師はどのように生計を立てていたのか。その一つとして、句会等を開催して参加者から参加料をいただくという方法がある。いわゆる、興行収入だ。
昼過ぎから可伸庵で開催予定だった句会は、狐娘芭蕉を一目見ようと可伸庵の前に集まってきた見物客で大賑わいとなった。
「予の庵の前がこんなに賑わうことは、後にも先にもねぇだろうなぁ」嬉しさ半分、不安半分で物陰から見物人を眺めていた栗鼠娘の可伸も、俳号を「栗斎」と名乗る立派な俳人である。句会が始まってからは随分と落ち着いて人前に出て、堂々と立ち居振る舞った。
『かくれ家や目立たぬ花を軒の栗』芭蕉
そんな芭蕉の俳諧を発句として、『五・七・五』『七・七』『五・七・五』『七・七』『五・七・五』『七・七』『五・七・五』……という具合に、参加者の俳人が歌を続けていく。
『まれに蛍のとまる露くさ』栗斎
栗斎が詠んだ瞬間、見物客は眼前を舞う蛍を幻視した。場内が感嘆に包まれる。
こうして、芭蕉・栗斎・等躬・曾良・等雲・須竿・素蘭という俳人が集った七吟歌仙の句会は、興行としても大成功に終わったのだった。
夕刻になり、なかなか帰ろうとしない見物客を散らすように、激しい雷雨となったのは果たして偶然か。
「とっておきの酒がある。今夜は皆で呑もうじゃないか」
等躬に誘われて、七吟歌仙の参加者で盛大に祝賀会を行った。
会では酒の他に豪華な食事も振舞われた。狐娘となって日が浅い芭蕉としては、そば切り(現在の蕎麦のこと)を上手く啜ることができず苦戦する場面もあったが、どの料理も大変美味しく、芭蕉も曾良も大満足であった。
この時のことを、曾良は「そば切りを食べる狐娘、尊い」と旅日記に残している。
「予もようやく人前に出られるようになりました」栗鼠娘・可伸もとい栗斎は、芭蕉にお礼を言った上で、また深々とお辞儀をした。「可伸庵も、栗の木も、きっと人々から愛でられる存在になりましょう。芭蕉先生には感謝してもしきれねぇです」
「とんでもない。拙者はただの切っ掛けに過ぎません。むしろ、拙者の方こそ、栗斎さんの生き方にはたいへんな感銘を受けました」
「予には、もったいねぇお言葉です」
褒められた照れ隠しついでに、可伸は昨晩語り損ねたことを教えてくれた。
それは、殺生石の欠片がある場所についての情報であった。
須賀川から北西に行った地に、可伸を栗鼠娘に変えた石があるという。
その地の名は、会津。
「会津へ行くぞ、芭蕉!」その夜、微睡みの中で九尾の狐を名乗る声はそんな提案をしてきた。
健脚の芭蕉とは言え、須賀川から会津までとなれば、白河街道を歩いて丸一日かかる距離である。
当然、行く予定はしていないため、宿の当てもない。
土地勘に詳しい者の道案内をお願いするのも気が引ける。
「気持ちは分かるが、姉上……な、なぜじゃ!? 姉上としか呼べぬ!?」芭蕉は自分の変化に思わず動揺した。「それになんじゃ!? この姉上のような話し方は!?」
「くふふ。妹が姉を姉上と呼ぶのは当然じゃろ? ようやく二尾となり、こうして我と対話できるようになったのじゃ。我の妹に相応しい言葉遣いにしてやろうと思うてなぁ……? くっくっ」意地悪そうな声色で、九尾の狐は言う。
「も、戻してほしいのじゃ!」芭蕉は懇願した。
「我の考えに異を唱えようとした罰じゃ。会津に辿り着くまで、そのままの口調でおるがよいぞ!」
「そ、そんなぁ、あんまりじゃあ!」芭蕉は泣きそうになりながら訴えたが、微睡みの中で九尾の狐の声が応えることはなかった。
元禄二年(一六八九年)四月二十五日
芭蕉は曾良とともに会津へ向かうため、須賀川を出発した。その肩には、栗鼠娘・可伸が乗って、道案内のために同行した。
ここからしばし、三人の足取りは不明となっている。
参考までに『おくのほそ道』には、会津に向かったという記述は存在しない。
曾良の旅日記にも『主物忌、別火』としか記録されていない。
そのため、曾良は須賀川に残ったとする説、そもそも狐娘芭蕉も会津には行かなかったとする説などが存在し、研究者の間でも結論は出ていない。
元禄二年(一六八九年)四月二十六日
曾良の旅日記に『小雨ス』の一言が残されるのみである。
元禄二年(一六八九年)四月二十七日
「ただいま戻りましたよ。等躬さん」
「芭蕉さん、曾良さん、ご無事でよかった! 可伸さんも……!」
須賀川へと帰り着いた時には、芭蕉の口調は元に戻っていた。そして、その狐尻尾は三本になっていたのであった。




