平泉(二)
文治五年(一一八九年)閏四月三十日
闇夜に響きわたる、刀を切り結ぶ音。
「判官どの! 敵襲でございます!」下男が深々と頭を低くして報告した。
「やれやれ、今日の追っ手は何者であるか」判官こと、源義経はうんざりした様子で尋ねた。
「泰衡のひきいる軍が、この館を包囲しています。その数、およそ五百騎!」
「なんだと!?」義経も泰衡が鎌倉殿から圧力をかけられていることは薄々察知していた。しかし、義経主従あわせて十数名に対して、ここまで早く容赦のない戦力を投入してくるとは予想していなかった。
義経が妻子や主従関係にある郎党とともに身を寄せていたのは、衣川館と呼ばれる高台の館であった。
元は藤原基成のものであったが、義経が秀衡を頼って奥州へやってきた後に、快く提供してもらったものである。
「某も、迫る軍勢を少しでも長く抑えておきますゆえ、判官どのは急ぎ準備を!」下男が駆けていく。
準備というのは、もちろん逃げる準備のことではない。自害の支度のことである。
「やれやれ、やはり泰衡には荷が重かったようだな。朝廷や鎌倉からの圧に耐えきれず判断を誤ったか」残念そうに言った後、義経は妻子を連れて高台にある持仏堂へ向かう。
奥州藤原氏の三代・秀衡が病で亡くなってまだ二年と経ってはいなかった。
義経を守って鎌倉と戦うように、と遺言をしてくれていた故・秀衡も、息子たちが遺言を守らず、このようになってしまったことを知ったなら、きっと嘆き悲しんだことだろう。
郎党の武蔵坊弁慶らが、大声をあげて敵兵たちを威嚇するのが持仏堂の中まで聞こえてくる。
妻の郷御前が、目元を覆ってこぼれる涙を隠す。
「だから何度も言ったではないか。俺のことは捨て置いて、娘を連れて早く逃げよと。兄上は地の果てまでも俺を追い詰めて殺そうとするだろう。だが、女であるお前まで死ぬ必要はないのだ」義経は妻に繰り返し平泉を離れるよう伝えていた。しかし、妻は決して義経の側を離れようとはしなかった。
「妾は決して後悔して泣いているのではございません。郎党の方々が命を投げうって、妾たちの旅立ちがために時間を作ってくれたこと。そのことが嬉しくて泣いているのです。妾は最期まで殿と一緒にいることを望みました。どうして後悔することがございましょう」
これまで義経は戦場で大勢の命を奪ってきた。そして、佐藤兄弟を始めとして、大勢の仲間の犠牲によって生かされてきた。
いまさら、自分ひとり生きながらえようとは思わない。
「いつ命運尽きて死ぬ時が来てもおかしくはない。そう覚悟していたつもりではあったというのにな……」いよいよ死ぬというその時になって、これほどの恐怖が沸き上がってこようとは、義経自身、驚きであった。「郷……」義経は震える手で、ここまで付き添ってくれた妻を強く強く抱きしめた。
いま衣川の周辺にいる郎党たちは、義経を慕ってここまで付いてきてくれた精鋭ばかりである。五百騎に攻められようが、まだしばしの猶予はあるだろうと思われた。
武蔵坊弁慶。常陸坊海尊。鈴木重家。亀井重清。備前平四郎。……
義経は、郎党一人一人の顔を浮かべつつ、心の中で別れの言葉を唱えていった。




