平泉(三)
「兼房。いよいよ時が来たようだ」白装束を着た義経が、芭蕉の方を振り返って言う。
「はっ!」思わずそう答えて頭を下げたものの、芭蕉は内心ひどく動揺していた。
いま、判官どのは、拙者のことを『兼房』と呼んだのか?
芭蕉は自分の身体を見下ろす。それは狐娘の姿ではない人間の男性の身体であったが、芭蕉の元の身体でもなかった。
芭蕉は今、見慣れない鎧を身に着けた老人の姿になっていた。
状況から推測するに、どういうわけか、『義経記』に登場する十郎権頭兼房になっているようであった。
(どういうことだこれは。幻を見させられているというのか。たしかに、拙者の名は、兼房と似ているが……)
余談だが、芭蕉は、本名を松尾忠右衛門宗房といった。
義経堂の前で一句を詠んだ後のことだった。
音も無く接近されたため、曾良の悲鳴で狐娘芭蕉が気付いた時には、すでに何者かの手は芭蕉の狐尻尾を握りしめていた。
ただでさえ尻尾は敏感であるというのに、その者の手があまりにも冷たかったこともあり、芭蕉は息を呑んだ。
直後、視界が揺らぎ、見たことのないはずの風景が芭蕉の中に流れ込んできて、今に至る。
さて、いつもどおりであれば、脳裏で九尾の狐が話しかけてきてもよい頃合いだが、ここでは期待できないらしい。
先ほどまで近くにいたはずの曾良も、ここにはいない。
気が付くと、時刻も昼から夜に変わっていた。
どうしたものか。
義経堂とは全く異なる建物――持仏堂の内に、芭蕉(兼房)は立っていた。
ただならぬ緊張感に、心拍数があがっていく。
眼前では、生前の義経と思われる若武者がここを死地と決意し、自害の準備を進めようとしているのだ。
想像するに、ここは芭蕉の生きる時代から五百年前の世界である。
「俺はどのように自害をすればよいか分からぬ。教えてはくれまいか」義経に尋ねられ、芭蕉は絶句する。
傍らには、奥方様も一緒である。奥方様は逃げようとする素振りもなく、その時を静かに待っているように見えた。
義経と心中するつもりなのか。兼房の答えを奥方様も固唾を呑んで見守っている。
「都にて佐藤忠信がやり遂げた自害は、多くの人に褒めたたえられてございます」思わず、義経記にあったような台詞をなぞってしまう芭蕉。
「あぁ、忠信は見事な最期であった。兄上ですら、忠信のことを褒めたという噂だ。まことに頼もしき郎党であった」
義経は、鞍馬寺からずっと肌身離さず持ち続けてきた守り刀である太刀を抜き放つ。




