塩竈の浦
夕暮れを告げる鐘の音が、塩竈の浦まで届いた。
夕空に幽かに見える月と、湾に浮かぶ小島が印象的であった。
「あの小島は、籬が島のようです」地図を見ていた河合曾良は言う。
「ほう、あれが……確かに松らしき木が見えますね」狐娘芭蕉は耳を立てた。
『わが背子を 都にやりて 塩竈の まがきの島の まつぞ恋しき』という作者不明の歌が「古今和歌集」に収録されており、有名であった。
掛詞として「まつ」を用いており、「松」「待つ」の二重の意味を含んでいる。
「拙者の姓にも松の字が入っていますから、松を詠んだ歌には少し親近感を覚えるんですよね」芭蕉はそう言って微笑んだ。
「私も、河を詠んだ句には親しみを感じますね」曾良は頷いた。
それから、しばし会話が途絶え、ふたりは静かに風景を眺めた。
五月雨のあがった空を見上げ、狐娘芭蕉は耳を澄ます。
穏やかな波の音。遠く海鳥の声。小舟を漕いで帰ってくる音。
獲れた魚を分ける漁師たちの声を聞いていると、昔の人が『陸奥は いづくはあれど 塩竈の 浦漕ぐ舟の 綱手かなしも』と詠んだ気持ちも分かるような気がして、たいへん感慨深い。
「みちのくで色々な景色を見た中で、この塩竈の浦の小舟が綱で引かれる様が特に印象深かった。という歌がありましたよね」曾良が同じ歌を思い出していることに気付いて、芭蕉は少しだけ尻尾を揺らした。
その時であった。狐娘芭蕉の耳が、遠く誰かが口ずさんだ歌を捉えたのは。
『きみまさで 煙たえにし 塩がまの うらさびしくも みえわたるかな』それは、紀貫之の歌であった。
塩竈の「うら」が掛詞として使われており、「浦」と「うらさびしい」の二重の意味を含んでいる。
「もしかすると、紀貫之の霊が近くにいるのかもしれません」とっさに周囲を探るも、それらしき人物の姿は見つからない。動いているのは、漁師や海女だけだ。
「しかし芭蕉先生。源融とは異なり、紀貫之は陸奥国を訪れたことは無かったはずです。幽霊になってから、生前一度も訪れたことがない場所に現れることはあるのでしょうか?」曾良は言う。
かつて、河原左大臣・源融は、京都六条にある自身の邸宅に、塩竈を模した庭を作らせ、海水を焼いて塩を作らせたという。
紀貫之は、源融が亡くなった折に、その塩竈を模した庭を見て、大切な人を失った悲しみ寂しさを込めて先ほどの歌を詠んだ。
あなたがいなくなって見渡す煙が消えた塩竈の浦がうら寂しく感じられる。といった意味合いの歌だ。
「紀貫之本人であればなお良いのですが、この浜辺に我々以外にこの歌を知っている者がいるとしたら、会ってみたくはありませんか?」芭蕉は居ても立っても居られないという様子で曾良を振り返る。
「確かにそうですね。しかし、私の耳には聞こえなかったので、小声だったのか、少し離れた場所にいるのかもしれません」曾良も周囲を見渡したが、それらしい人の姿は見えなかった。
その夜のこと。狐娘芭蕉は、枕に突っ伏して耳を押さえていた。
「うぅ……音が大きいせいか全然眠れません……」
「琵琶法師のことですか? 微かに聞こえる程度だったので気にしていませんでしたが……確かに今の芭蕉先生にとっては大声に聞こえるのかもしれません」眠りかけていた曾良が起き上がった。
どこか遠くから響いてくる琵琶の音。奥浄瑠璃というものを語るは、ひなびた調子の声を張りあげる琵琶法師であった。
「この地に伝わる伝統芸能を守っているので、たいしたものだとは感心しますが……」芭蕉は寝ることを諦めて、奥浄瑠璃が落ち着くまで夜の塩竈を散策することにした。「曾良君は休んでいてください。少し夜風にあたってくるだけですから」
「いえ、せっかくですので、私も同行させてください」
ふたりは宿の薄暗い部屋で準備を整え、提灯を片手に夜の町に出ていくのであった。




