塩竈の裏
月と手元の提灯の明かりを頼りに塩竈の夜を歩く。
琵琶の音は、塩竈の海の方から聞こえてきていた。
琵琶法師とは、街中で琵琶を演奏しながら物語りをする職業である。
ただし、ひと気のない夜の海で琵琶を弾く琵琶法師などはいない。
「海座頭じゃろうな」狐娘芭蕉の身体を借りて、九尾の狐は言った。
「やはり妖怪の仕業でしたか」曾良は芭蕉が一人で行こうとした時から、薄々気付いていた。
「海座頭の琵琶を聞いたからと言って、通常の人間には害はないはずじゃ。ゆえに、おぬしが同行しても問題はないじゃろう。しかし、大切な人を失って心が弱っている者が聞いた場合は危険じゃ。中には忘我のまま、海に誘われる者も出るじゃろう。急がねば、人が死ぬやも知れぬ」
まもなく視界が開けて、海が見えた。
『不如帰 消えゆく方や 嶋一つ』
浜辺に着くや否や、九尾の狐は、芭蕉がかつて『笈の小文』の旅で詠んだ句を引用する。
芭蕉の手にした提灯から火の粉が飛んだ。それは、瞬く間にほととぎすの形に燃える狐火と化し、海に向かって鉄砲の玉のように飛んで行った。
「ギャアアア!」
海面に立ち、琵琶を弾きならしていた海座頭の姿が狐火に包まれたかと思うと、その炎の中から小さな鳥が飛び出して、沖へと逃げ去っていく。
「これでもう戻ってこぬじゃろう。我はもう寝るので、後はおぬしらで何とかせよ」狐火が消えたことを確認すると、九尾は身体を芭蕉に返して眠ってしまった。
夜の塩竈の裏には、芭蕉と曾良以外に一人、波打ち際に佇む者があった。
「あの人は確か、末の松山ですれ違った……」夜目の効く芭蕉が真っ先に気付いた。
最愛の人を亡くした武士である。その顔は、末の松山で見た時よりもやつれて見えた。
武士は、海座頭の琵琶を聞いたことで忘我の中にあった。今まさに入水の一歩を踏み出そうとしている。
「お待ちください、お侍さま。それ以上進めば、海ですよ」芭蕉は武士に呼びかけた。
武士は正気を取り戻し、波打ち際から飛びのいた。
「かたじけない。どうかしていたようだ」そう言いかけた武士は、提灯を持った狐娘芭蕉の姿に驚いて尻もちを付いた。「うわあ! ば、化け狐!?」
「先生に向かって化け狐とは何ですか!」曾良は、今にも腰の刀を抜こうとしている武士から芭蕉を庇うように間に入る。
「曾良君。良いのですよ。事実を言っているだけです」尾の変化を解き、金色の五尾を広げて前に出る。
武士は尾の美しさに見惚れて静かになった。
「あんた……いったい何者だ……痛たた……」打ち付けた尻をさすりながら、武士は立ち上がった。
「通りすがりの俳諧師です。あなたの大切な人から伝言を預かりまして」芭蕉は言う。
そもそも伝言なんて受け取ってはいないはずである。
曾良は固唾を呑んで芭蕉の発言を見守るしかなかった。
「あなたとそっくりな顔をした、芍薬を髪飾りにした方でした」
初対面の怪しい狐の言うことなど信じるものか。そう言いたげな表情だった武士は、それを聞いて表情を変えた。
「姉上と会ったのか」
武士の顔は、末の松山で成仏したあの浮遊霊の女と本当に瓜二つである。
髷を結っている以外は、ほとんど本人と言っても過言ではない。
心なしか、声までも同じに聞こえるほどである。
「大丈夫。伝えたいことは、生前に全部書き残してあるから……。ありがとう」
芭蕉は、末の松山で聞いた浮遊霊の言葉をそのまま伝えた。その声色は山彦のように、浮遊霊そっくりであった。
「もしかすると、あなたは、まだ亡くなった大切な人が書き残した手紙を読めていないのではないですか」芭蕉は元の声色に戻って尋ねた。
図星だったと見える。武士は明らかに動揺し、まだ見ぬ手紙を探すために慌てて帰って行った。
手違いで手紙の存在に気付けていなかったようだ。
「夕暮れ時に紀貫之の歌を口ずさんでいたのは、彼だったのかもしれませんね」芭蕉は静かになった塩竈の浦を眺めて一息ついた。「また会う機会があれば、今度はきちんと語り合いたいものです」
「あるいは、海座頭の歌だったのかもしれません」曾良は冗談交じりにそう言って笑った。
「なるほど、それもありえますね。もしそうだとすると、海座頭はどこで紀貫之の歌を知ったのでしょう? 妖怪は長生きでしょうから、もしかすると、紀貫之本人から直接歌を聞いた可能性もありますね。実に気になりますね、曾良君!」芭蕉は冗談に聞こえなかったようで、思いのほか真面目に考え始めてしまった。
「……そろそろ、我々も宿に帰って休みましょうか」優しく微笑む曾良に促され、狐娘芭蕉は急に熱く語ってしまったことが恥ずかしくなって大人しく宿に帰るのであった。
『おくのほそ道』には記載されることがなかった、塩竈の裏話である。




