22
ガタガタ揺れていた馬車がだんだんと速度を落とし、静かに止まった。私一人だけの車内。高まる緊張感の中、激しい鼓動を繰り返す胸を押さえながら、深呼吸を繰り返す。
かちゃり。
掛け金が外れる音がして、扉がゆっくり開けられた。従者の手を借りて馬車から降りる。深紅の絨毯が敷き詰められた大理石に足を下ろしながら、初めて王城を訪れたデビュタントの時が思い起こされた。でも、あの時よりも今は遥かに仰々しく、近衛の数も、居並ぶ馬車の煌びやかさも、比べものにならなかった。
ああ……と実感する。今日は本当に、リュシアン殿下の生誕パーティーなんだ、と。
「ミリアーナ嬢」
イリオス様の声が聞こえたので、呼ばれた方へと振り向く。そこには、いつも学園で会う時とはまるで違う、洗練された姿のイリオス様が立っていた。黒を基調とした隙のない仕立ての礼服に身を包み、胸元のタイには深い緑色のタイピンが静かに輝いている。
普段は額に緩く落ちている蜂蜜色の髪は、今日はきっちりと後ろに撫で付けられていた。その分、緑色の瞳がやけにはっきりと見え、彼の端正な顔立ちが際立っていた。
「……………………」
――やばい。格好いい。
あれ? イリオス様のことは、これまでも素敵な人だとは思っていたけど、こんなにも格好良かったっけ? もしかして、礼服効果というやつ?
思わず見惚れてしまっていると、イリオス様も目を軽く見開いたまま黙っていた。なぜ沈黙しているんだろう。ナタリーが完璧に仕上げてくれたので、私の装いも特に変なところはないはずなのだけど。
「あ、あの……イリオス様?」
声をかけると、彼は口元に手を当てながらそっと横を向いた。
「……いや、すまない。少し、ぼおっとしてしまって」
イリオス様は小さく息を吐くと、目を細めて柔らかい笑みを浮かべた。どことなく、いつもより優しさが増している。
「よく似合っている、ミリアーナ嬢」
「あ、あの……ありがとうございます。それに、素敵なドレスまで準備して頂いて」
赤くなった顔を誤魔化すかのように下を向きながら、私は礼を告げた。
「当然のことだ。気にしないでくれ。さぁ、会場に向かおう」
イリオス様がスッと白い手袋に包まれた手を差し出してくれたので、私も軽く手を添えた。何度も練習してきたエスコートだ。歩き方、ドレスの捌き方、姿勢、目線。シャンドール侯爵令嬢に叩き込んでもらった内容が思い出された。
大丈夫。何度も練習してきた。だから、私はやれる。
イリオス様と視線を交わして歩き出す。周囲の視線が一斉にこちらへ向いた。
「あれが……」
「王太子殿下の恋人」
ざわつく周囲の言葉は慣れたものではあったけれど、さすがに場所も相手も違う。気にしない素振りをしても、突き刺さる視線や声は、学園の廊下で受けていたものとは比べ物にならないほど重かった。
それでも――
「大丈夫だ、気にするな。君は、舞台のことだけを考えたらいい」
「――はい」
イリオス様が、今、私を守ってくれている。その実感が、私の心に勇気を与えてくれていた。
大理石の階段を上り、豪奢な調度品が並ぶ回廊を抜けていく。すれ違う貴族たちの視線も囁きも、全てそのまま流した。
今の私は、リュシアン王太子殿下の『恋人』。今日のこの日を楽しみにしていて、彼の待つ大広間へ向かい、彼と共にこの先の未来の幸せを掴み取るために戦うのだ。そう想像しながら、役になりきるために、私は口元に笑みを浮かべた。
やがて、目の前に金の装飾が施された大きな両開きの扉が見えてきた。案内係が一礼し、重い扉がゆっくりと開かれていく。美しい弦楽の調べが、一気に耳へ流れ込んできた。
無数の蝋燭の灯りに照らされた大広間。豪華なドレスや礼服に身を包んだ大勢の招待客たちが、あちこちで談笑にふけっている。
――ここが、今夜の『舞台』。
「ミリアーナ嬢、こちらへ」
大広間の迫力に圧倒されている私を、イリオス様が先導してくれる。あまり人気のない壁際に着いた後、大広間全体を見回した。
「あそこから、国王陛下ご夫妻とリュシアン殿下、ランツベルグ公爵令嬢がご登場なさる。そして、国王陛下のお言葉の後、いよいよ、あのダンスフロアで王族のファーストダンスだ」
一つ一つ指で示しながら、イリオス様が小声で説明してくれる。私も、リュシアン殿下が迎えに来てくれるとはいえ、しっかり覚えないと。小さく息を飲みながら、イリオス様の説明に頷きを返す。
「殿下とも、ミリアーナ嬢を予めここに連れてくると打ち合わせしている。ファーストダンスを終えてキリがついたら、君を迎えに来るだろう」
「……わ、分かりました」
私は口元をきゅっと結んで、返事をした。覚悟を決めていたとはいえ、やはり実際に舞台に上がると思うと、私の鼓動は激しく鳴り始めた。
「緊張は……しているだろうな」
「……ええ。今にも、心臓が口から出てしまいそうです」
呼吸も浅くなる。嫌な汗も滲み出てくるし、何だか、軽い眩暈もしてきた気がする。
その私の様子を見ながら、イリオス様はおもむろに口を開いた。
「……ランツベルグ公爵令嬢から、伝言を受けている」
「――え? オーレリア様から?」
「ああ。『この舞台が無事に終わったら、わたくしもあなたのお父様の温泉事業に投資をするわ。だから、大船に乗ったつもりでいなさい』とのことだ」
「え? 父の温泉事業に投資?」
え? いきなり、何の話をしているの?
「それに……君は、リュシアン殿下とランツベルグ公爵令嬢の双方から、成功報酬も受けることになっていたな。殿下への恋愛指導もしっかり取り組んでくれたから、報酬はもちろん上乗せしての額だ。君は一気に、お金持ちになるな」
「え? いや、あの? た、確かに成功報酬の話は、した覚えがありました、が……」
そういえば、私はもともと、領地の立て直しや屋敷の修繕のために、お金が欲しくて双方の依頼を受けたんだった。
「おや? もう忘れたのか? なら、成功報酬はなしでも構わないな」
「いや、ちょっ! それは狡いですよ! 成功報酬もらうと約束して、ちゃんと書面まで用意したじゃないですか!」
何ということだ! ここまで頑張ってきたのに無報酬だなんて! そんな卑怯な話をイリオス様がするとは思っても――……
イリオス様を見上げると、彼は小さく笑っていた。もしかして、私の緊張を解くために、敢えてこの話を?
「イリオス様……」
私が名を呼ぶと、イリオス様はニッと笑った。
「少しは緊張が取れたか?」
「……はい、お陰様で。ありがとうございます、イリオス様」
「支援の話も、成功報酬上乗せの話も、本当だ。だから、無事に舞台を終わらせた後は、手に入る金貨の枚数でも数えていたらいい」
「そんな……ふふっ。私、凄くがめつい女みたいじゃないですか」
「おや、違ったかな」
「いえ、違わないですね。ふふふっ」
二人で小さな声を上げながら笑う。
そうして――ずっと蓋をしていた思いに、とうとう気付いてしまった。
ああ……好きだな、と。
私は、イリオス様が好き。
まさかこんな、自分や領地がどうなるか分からないような時に自覚してしまうなんて。もう少し後でも良かっただろうに。切ない思いが湧き出て、私は目を細めた。
「ミリアーナ嬢、国王陛下のご入場だ」
イリオス様の声に、思わず背筋が伸びる。
会場のざわめきが静まり、弦楽の調べも止んだ。誰もが息を潜め、その場に佇んでいる。
やがて、高らかにラッパの音が響き渡った。
「国王陛下、王妃陛下、ご入場」
朗々と響く声と共に、会場中が一斉に礼を取る。私もイリオス様に倣って、深くカーテシーを取った。
続いて、リュシアン殿下とオーレリア様が、国王陛下ご夫妻の後に続いて姿を現した。金の髪に青い瞳のリュシアン殿下と、絹糸のような金髪を巻き、深いミッドナイトブルーのドレスを纏った碧眼のオーレリア様。並んで歩くだけで、誰もが振り返るほどの美しい一対だった。
国王陛下のお言葉が終わると、いよいよ王族のファーストダンスが始まる。曲に合わせて滑らかに踊る二人の姿は、まるで一枚の絵画のようだった。寸分の狂いもない足運び、美しい所作。
ただ、私から見ていて感じるのは……笑顔を浮かべているはずの二人は、どことなく視線が合っていなかった。最も近い距離にいるはずなのに、温もりが通っていないような冷たい印象。
「……何とかしないと」
思わず声が漏れる。そうだ。今日こそ、このすれ違い続けた二人の関係に終止符を打ち、新たな門出を迎えるのだ。
その舞台が間もなく始まる。
曲が静かに終わりを迎える。二人がぴたりと動きを止め、互いに一礼を交わすと、その瞬間――
わっと、会場中から盛大な拍手が湧き起こった。辺りからは、口々に称賛の声が上がっていた。
「……ミリアーナ嬢」
会場の賑わいの中でもはっきりと聞こえる、イリオス様の声。彼は真剣な眼差しで、私を見つめる。
「――俺は、君たちの舞台には上がれない。上がることができない。だから、ここでずっと、君たちを見守っている」
拍手が少しずつ収まり、再び弦楽の調べが会場に流れ始めた。
「そして……もしもの場合は。俺が君をこの場から逃すと約束する」
「………はい」
私はただ、その言葉しか口から出すことができなかった。
やがて、辺りのざわめきが引き、イリオス様が私の背後へ視線を移した。リュシアン殿下がこちらに向かってきているのだと分かった。
私はもう一度、イリオス様と視線を交わす。無言で頷く彼に、私はふわりと笑った。
「……行ってまいります、イリオス様」
「……ああ」
私の背後で、一人の足音が止まる。振り返ると、予想していた人物が立っていた。顔を緊張に強張らせながらも、強い意志の光をその目に宿して。
「ミリィ、時間だ」
リュシアン殿下が差し伸べる手に、私は手を重ねた。
さぁ。
断罪劇の幕開けだ。
こうして、一話目の冒頭へと話が戻る訳です。
ちなみに、断罪劇でリュシアンが「け、けけけ……」となってしまった理由ですが、例え演技でも「ミリアーナと結婚する」と口にすることだけは、どうしてもできなかったからでした




