12
場を切り裂くかのように、静かで高貴な声が響く。驚いた私たちは、ハーゲン伯爵令嬢の後ろに立つ女子生徒を見つめた。
マグダレーナ・シャンドール侯爵令嬢。
オーレリア様と同じAクラスで、彼女の一番のご学友だ。もちろん、私もクッキーを通して、面識のある方だった。
「あ……ま、マグダレーナ・シャンドール…侯爵…令嬢……」
ハーゲン伯爵令嬢は振り上げた手を胸元に引き寄せると、青ざめた顔で後ろに数歩退く。シャンドール侯爵令嬢は、彼女たちの間を通り過ぎて私のそばに立つと、上から下まで眺めた。
そういえば気にしてなかったけれど、今の私は濡れ鼠状態だった。
そして、ハーゲン伯爵令嬢のそばに転がるバケツを見た後、シャンドール侯爵令嬢は小さくため息をついた。
「あなたたちは何をしていたか――は、問う必要はなさそうね。なぜ、このようなことをしたのです?」
扇で顔を半分隠しながら、無表情で問うシャンドール侯爵令嬢の姿は、高位貴族としての高潔さが如実に現れていた。私が詰問されている訳ではないのに、やけにびくびくしてしまう。
ハーゲン伯爵令嬢も同様だったが、震えながらも私を指差して口を開いた。
「――かっ、彼女が悪いのです! お、オーレリア様の婚約者であらせられる、リュシアン王太子殿下に付き纏っているのですから!!」
「ハーゲン伯爵令嬢」
シャンドール侯爵令嬢の視線の温度が下がった。ひっ、とハーゲン伯爵令嬢が悲鳴をあげる。
「控えなさい。オーレリア様は、あなたに名前を呼ぶ権利を与えられていないはずよ」
「……も…申し訳…ございませ、ん」
ハーゲン伯爵令嬢は下を向いて体を折りながら、震える声で謝罪をする。
こ、怖いっ。これが、高位貴族の圧か。
「それに、オーレリア様は、このようなことを望まれてはおりませんわ」
「――っ! で、ですが!」
「ですが?」
ゆっくりとした口調で、シャンドール侯爵令嬢が繰り返す。もはや、ハーゲン伯爵令嬢は力をなくし、完全に項垂れてしまった。
「――は、はい。大変、申し訳ございませんでした」
「もうすぐ夏休みでしょう? 王都は暑いわ。しばらくは領地にでも戻って、大人しく涼んできたらいいわ」
「――はい。おっしゃる通りに致します」
ハーゲン伯爵令嬢のそばに立っていたブラッドリー子爵令嬢とアシュビー子爵令嬢も、表情の抜け落ちた顔で項垂れている。「失礼致します」と小さく呟いた後、彼女たちは足早に去っていった。
ど、どうしよう。
取り残されてシャンドール侯爵令嬢と二人きりになったけど、一体どうしたらいいのだろうか。私から話しかけられないし、何より先程の修羅場の恐怖がまだ私の中に残っている。
「ミリアーナ・グリーンウッド男爵令嬢」
「は、ははははっ、はいぃっ!!」
声をかけられて、いつも以上に背筋を伸ばしながら答える。やばい、緊張しすぎてどもってしまった。
シャンドール侯爵令嬢は少し目を見開いた後、優しく微笑んだ。
「ふふ。そんなに畏まらなくて平気ですわよ」
「で、ですが――っ」
「わたくしも、あなたの作るクッキーのいちファンですの。ご存知でしょう?」
確かにシャンドール侯爵令嬢は、私がクッキー入りの籠を持っていくと、オーレリア様と共に真っ先に近くに来られる方だ。嬉しそうに笑う笑顔がとても印象的だった。
「はい……いつも美味しそうに召し上がってくださってましたね。ありがとうございます。その……先程助けてくださったことも」
「気になさらないで」
そして、シャンドール侯爵令嬢はとても意味深なことを言った。
「最近ね、オーレリア様がお気に入りの子猫を見つけられたそうなの」
「え?」
「その猫はね、茶色い毛並みに、焦茶色の瞳をしているのですって。とてもお気に入りのご様子でしたわよ」
「こ、子猫……ですか?」
茶色い毛と焦茶色の目って、私の特徴そのままでもあるんだけど。ね、猫って一体?
「大切にされていらっしゃるようでしたからね。わたくしも、大事にしようと思いましたのよ」
「そ、そうなんですね。あの…はい……ありがとうございます」
子猫が私かは確定してないけれど、とりあえずお礼を伝えた。
「さ、早く医務室に行きなさい。タオルを貸してくれると思うから。あなた、ずぶ濡れですわ。何か着替えは持っているの?」
「えと……運動着はあったと思うので、それに着替えようと思います」
「それに、ヴァンガード伯爵令息があなたのことを探し回っていたわ。早く着替えて、安心させてあげなさい」
指摘されて、ハッとした。
しまった、完全に忘れていた!!
「あ、あわわわわっ」
まずいまずいっ、リュシアン殿下をかなり待たせてしまっている!
なんと言われるか。もしかして叱責されるかもしれない。様々に想像してしまい、ぶるぶると体の底から震えが湧き上がった。
「あ、あの! 本当に、ありがとうございました!!」
心配そうな顔をするシャンドール侯爵令嬢に、深々とお辞儀をした後、私は医務室へと全速力で向かったのだった。
*****
「おお、グリーンウッドか。遅かったな」
手に持つ本から目を逸らさず、リュシアン殿下は何事もないように言った。殿下の前のテーブルには、何冊もの本が積み上がっていた。
「…………………………」
しっとりと濡れた髪。昼食で会った時とは違う運動服姿。そして、たぶん疲れた表情をしている私の顔。
リュシアン殿下は、それらを一切見ないで、黙々と読書を続けている。
私の背後に立つイリオス様も、殿下のその姿に色々な思いを抱いたのだろう。心なしか、背中がやけに冷え冷えとしている気がする。
「あの……リュシアン殿下」
いまだに本を読み続ける殿下に、声をかけた。
「遅くなってしまって、大変申し訳ありませんでした」
「いや、本を読んでいたから、あまり気にしていない――っと、お前! その姿はどうしたのだ!?」
わずかに本から顔を上げた殿下は、驚いて本をバサっと床に落とした。
ええ? 本当に今気づいたの!?
「どうした、一体何があった? なぜ髪が濡れている!?」
急に焦りながら質問してくる殿下に、イリオス様が私の横に立って静かに口を開いた。
「私がミリアーナ嬢を呼びにいく前に、複数の女子生徒に校舎裏へ連れて行かれたそうです。その時、バケツの水をかけられて頭から濡れてしまったとのことでした」
「なんと言うことだ! 全くもって陰険な。一体、どこの家の者がそんなことをしたと言うのだ」
「あー……えーっと」
腕を組みながら怒る殿下に、私は答えるのを少し躊躇ってしまった。確かに、彼女たちがしたことは良くない。私も最後は怒った。でも、もしここで名前を言ってしまったら、彼女や、彼女たちの家の方はどうなってしまうのだろうか。
「ハーゲン伯爵令嬢と、ブラッドリー子爵令嬢。そして、アシュビー子爵令嬢の三人です。主犯格は、ハーゲン伯爵令嬢、とのこと」
「い、イリオス様!?」
口籠もってしまった私の代わりに、イリオス様が全て答えてしまった。私は慌てながらイリオス様の顔を見る。いつになく表情のない彼は、確かな怒りを抱いていた。
「ミリアーナ嬢が医務室に向かっている間に、シャンドール侯爵令嬢が全て教えてくれました。先日の教科書の破損も、男子生徒に足を引っ掛けられた件も、全てハーゲン伯爵令嬢が他の生徒をけしかけて行われたようです」
「あ、あの! ち、違うんです!」
イリオス様の報告を遮るように、私は大声を出した。
「違う? 何が違うというんだ。現に君は、その全ての被害を受けている被害者だ」
イリオス様が無表情のまま、私に向き直る。
「いや、あの。た、確かに全部されてはいますが――私がやっていることって、他の貴族の方からすれば、本当に生意気に見えると言うか、場をわきまえない女と思われても仕方ないと言うか」
「だからと言って、そのような嫌がらせをしていい訳ではないだろう。もし気に食わないと言うのなら、それは正当な手段でもって訴えるべきだ」
「か、勘違いを招いているのは、私たちの方です! もしリュシアン殿下が、あんなにも素晴らしいご婚約者のオーレリア様ではなく、私のような田舎者の男爵令嬢に本気で恋愛感情を抱くようになれば、誰だって心配になりますよ!」
「俺は手段が問題だと言っている」
イリオス様の考えは変わらないようだ。私のために言ってくれているのは分かるんだけれども――
そこに参戦するように、リュシアン殿下が毅然と言った。
「そうだぞ、グリーンウッド。いくらここが学園内といえども、貴族社会を学ぶ場でもある。そのような卑怯な手口を使う者たちなぞ、将来この国のため、ひいては私のために役に立つはずがない。今のうちに、芽を摘んでしまおうぞ」
あ、ダメだ。
殿下のこの口ぶりは、本気で処分する気だ。
「いやいやいやいや!? ちょ、待ってください、殿下!? そもそもは、あなたがきっかけでしょう!!」
私に指摘された殿下は、嫌そうにむっと顔を歪めた。
「なぜだ。なぜ私が原因になるのだ?」
「だって、あなたがオーレリア様に早く告白してくれさえすれば、私たちはこんな大掛かりで誤解を招くような演技はしなくて良かったのですから!!」
サロンの中に、一瞬だけ静寂が落ちた。
「――そうだな。確かにその通りだ。全て殿下が悪い」
「イリオス! なぜそこで即答する!?」
ソファに腰掛けていた殿下が勢いよく立ち上がった。
「そもそも、あなたがオーレリア様とご婚約された時から正しい形で関係を深めてさえいれば、ミリアーナ嬢に恋人役など、難しく不憫な役を頼まずに済んだのです」
「いや……まぁ、その……その通りなのだが」
「さあ殿下。ミリアーナ嬢の今後の被害を最小限にするためにも、今すぐオーレリア嬢に告白を。九年間、溜めに溜めてきた思いの丈を、今すぐ告げるのです」
イリオス様は一歩、また一歩と殿下との距離を詰めていく。真顔のまま淡々と話すその様子は、何だか別の意味で怖いんですけれど?
「いや……ちょ、ちょっと待て、イリオス?」
「何を躊躇う必要があるのです? ミリアーナ嬢を待っている間、シャンドール侯爵令嬢から勧められた市井で流行りの恋愛小説を読んで、既に学習されたでしょう。私が図書室で借りてきた本も、全て読破されたはずです」
「そ、それはそうなのだが……し、しかしな」
にじり、にじり、と両手を前にしながら後ずさる殿下。
え? あのテーブルに積まれていた本、恋愛小説だったの? 十冊近くはあったはずなのに、この短時間で全部読み終わった?
別の方面から殿下の優秀さを確認したが――何だか複雑な気持ちになった。
気がつけば、イリオス様はサロンの壁際まで殿下を追い詰めていた。
「女性への美の賛美も、ミリアーナ嬢とのやり取りで習得されたはずです。さぁ、今すぐオーレリア様の元に向かいましょう」
「だ、だから――わ、私にはまだ、時間が足りないのだ――っ!!」
逃げ場を失ってしまったリュシアン殿下は、顔を真っ赤にしながら泣きそうな声で叫んだのだった。




