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バケツが振りかぶられる瞬間、私は目をぎゅっと閉じて横を向いた。
ばしゃぁっ
顔にかけられた水は、そのまま髪を伝い、制服を濡らしていく。足元の土も水を吸い、黒く湿った。
「あーあ…」
替えの制服なんて持ってきてないのに、この後どうしよう。濡れてべとっとする服の気持ち悪さに、私は服やスカートの裾をつまんだ。
「――いい加減になさいよ、この田舎者がっ!」
ガンッ
顔に張り付く髪をかきあげると、怒りに顔を赤く染めたヴィオレット・ハーゲン伯爵令嬢がバケツを投げ捨てた。
テストも終えて夏休みも目前となった今日。ナタリーは家の用事があるとのことで、学園を休んだ。
ナタリーがいない分、狙われやすくなることは予測済みだ。なので、今日の放課後は早めにイリオス様と合流していつものサロンに行く予定だったが、イリオス様がDクラスに迎えに来る前に、クラリッサ・ブラッドリー子爵令嬢から呼び出しを受けた。そして、イリオス様との予定がある旨を伝える前に、腕を引っ張られ校舎裏まで連れて行かれてしまったのだ。
そして、人目のつかない茂みの中にある太い木に押し付けられた後、ハーゲン伯爵令嬢とフランシーヌ・アシュビー子爵令嬢が現れた。ハーゲン伯爵令嬢の手にバケツが握られていると思った途端、冒頭のあれである。
「あなたのような田舎者がリュシアン殿下に纏わりつくなんて、恥知らずにも程がありますわ!」
大声を張り上げて責め立てるハーゲン伯爵令嬢。
いや、纏わりつくなんて言われても――ねぇ?
事実を言えなくて、ただハーゲン伯爵令嬢を見ながら沈黙をする私。
「それに、なんですの、あれ! オーレリア様の目の前で、よくも恥ずかしげもなく、イチャイチャイチャイチャと!!」
ぐぬぬぬと、ハーゲン伯爵令嬢は拳を握りしめる。よほど腹に据えかねているらしい。
私としては、あんなポンコツ劇場でも、ちゃんと外野からは『いちゃいちゃしている』と見えていることに、逆に驚きなんだけど。
「それに、毎回毎回、休みのたびに粗末なお菓子を作ってはAクラスに入り浸って! あなた! そんなに高位貴族に媚びを売って、どれだけ恥知らずなんですの!?」
「そうよ! あんな不味いお菓子を食べさせられて、きっと皆様、迷惑されているに違いありませんわ!!」
「私があなたの立場なら、恥ずかしすぎてお菓子なんて差し上げられないわ!!」
ハーゲン伯爵令嬢に続いて、ブラッドリー子爵令嬢とアシュビー子爵令嬢も大声を出した。
「………………………」
私はもはや、何も言えなさすぎて、沈黙し続けるしかなかった。
私がリュシアン殿下に付き纏っているように見えるのは、殿下から直接『恋人役』を依頼されたからだ。しかも、その婚約者であるオーレリア様も、その継続を願われている。
周りから見てイチャイチャしているのは、ある意味、リュシアン殿下が将来オーレリア様に対して行う練習のため。まだ一人では「可愛い」と「美味い」しか言えず、恋愛ごとに関してはことごとくポンコツになる殿下に、どうやって褒め言葉の語彙力を増やそうかと悩んでいるくらい。
そしてクッキーに関しては――
あの『クッキー踏み潰し事件』の後日、作り直したナッツ入りクッキーをAクラスに持って行ったら、クラス全員から大絶賛されてしまい、毎週休み明けにお菓子を持ってくるよう、オーレリア様から新たな依頼が追加されたくらいだ。今ではAクラス全体のお茶会のような雰囲気になっていて、恋人ごっこという当初の目的は、もはや誰も気にしていない気がする。
私としては、材料費込みでの追加報酬なので、新たな臨時バイト感覚でいたのだけれど――何も知らないと、やはり家格差からしてそう捉えられてしまうようだ。
うん、何だかごめん……
酷い誤解をさせてしまったハーゲン伯爵令嬢たちに、私は密かに同情してしまった。
「ちょっと! さっきから黙ってないで、何とか言いなさいよ!!」
沈黙を守る私に焦れたハーゲン伯爵令嬢が、手を腰に当てて怒鳴った。
何とか言えと言われても、さすがに真実を伝える訳にもいかないし……
「まぁ……そうですね。確かに、そう見えても仕方ないかなぁ、とは……思います」
頬をかきながら、小さく呟く私。
ああ、それよりも早く着替えたいんだけど。夏になったとは言え、濡れた服が張り付くのは気持ち悪い。
「あら、意外ね。頭が弱そうに見えて、ちゃんとご自分の罪を自覚しているようだわ」
ハーゲン伯爵令嬢は、感心したように上から見下ろした。後ろの二人も、扇や手を口に当てて、クスクス笑っている。
そうだね、自分が何をしているか自覚はあるよ。でも、当人たちからの依頼だから、契約が終わるまでは私も放棄できないんだよね。
だから、そろそろ終わろうよ。いつまでやるの?
「あなたみたいな芋娘は、リュシアン殿下には相応しくないわ!」
「そうよ! あなた達の姿を見つめる、オーレリア様のあの哀しそうな表情が、あなたには見えていないの!?」
「身の程をわきまえられる知恵があるなら、早く身を引きなさいよ!!」
歯止めが効かなくなったらしい三人が、次々に私への悪口を言ってくる。「このちんちくりん」とか「頭悪そうな笑い声」とか、もはや個人攻撃に近くなってきた。
うーん。一体これ、どうなって終わらせよう。
リュシアン殿下とのお約束があるので、これ以上長引かせても良くない。私は目の前の伯爵令嬢よりも、王族の方に従う男爵家なのだ。
悪口をずっと右から左に流していたが、そろそろ私も腹を決め、茶番とも言えるこの時間を終わらせることにした。
「申し訳ありませんが、私もこの後、予定がありまして。すみませんが、この辺で辞させて頂きます」
一応、丁寧に断りを入れて頭を下げたのだが、それが逆に気に障ってしまったようだ。カッと顔を赤くしたハーゲン伯爵令嬢が、顔を険しく歪ませた。
「何を、男爵令嬢ごときが生意気な! どうせこの後、殿下と会う約束でもしているのでしょう!!」
「そうですね。有り体に言えばその通りです。王族の方を待たせてしまっている状態なので、早めに向かいたいのですが――」
「あなた! わたくしたちの話を聞いていなかったの!?」
歩き出そうとした私の前を、ハーゲン伯爵令嬢たちが遮った。
「オーレリア様のためにも、早く別れなさいと言っているのよ!!」
「そうよ!! それに、どうせ殿下だけでなく、他の男性にも媚びを売っているのでしょう!!」
Aクラスの男子生徒からもクッキーを楽しみにされているので、間違ってはいない。
間違ってはいないのだけれど――
私だって、平穏な学園生活を犠牲にし、一部とは言え学園中のヘイトを集めてまでこのお役目に取り組んでいるのだ。さすがに、私もイライラしてきたぞ。
むっと眉根を寄せた私に、ハーゲン伯爵令嬢はニヤリと笑う。
「ふふん。あなたでも、そんな顔ができるのね」
「こんな芋娘を王立学園に送り出すなんて、あなたのお父様も大変だったでしょうね」
「己の身分も弁えずに、王太子殿下を誘惑するような、ふしだらな娘ですもの。きっと領地でも、ろくな教育などさせてもらえなかったのですわね」
「………………………」
私だけのことではなく、親の悪口まで。
さすがにそれは、聞き捨てならなかった。裕福とは言えない我が男爵家から、遠く離れた王都の学園に私を送り出すために、家族がどれほど苦労したのか。
領地のため、民のため日々奔走しながら、必死に私の学費をかき集めてくれた父の姿が。日々の生活を削りながら、我慢を重ねてくれた母や弟の姿が、私の瞼に浮かんだ。
「……訂正してください」
自分でも驚くほどの低い声が、口から漏れた。
「……なんですって?」
「私のことを悪く言うのは、いくらでも構わない。でも、私の家族を侮辱するいわれは、あなたにはない!」
キッとハーゲン伯爵令嬢を睨みつけると、彼女は怒りに震えた。
「こ、の……あばずれがっ!」
ハーゲン伯爵令嬢が手を大きく振りかぶる。叩くなら、いくらでも叩きなさいよ!
受けて立つわよ!!
下位貴族の私が反撃するつもりはない。けれど、何発でも受け止めてやる覚悟で、ぎゅっと両拳を握り締めると――
「そこまでよ」




