10
あれから月日が経過し、季節は初夏を迎えた。
制服も長袖から半袖に変わり、生徒たちの気持ちもどこか軽やかになっていた。
そして――
「おっと、悪いな――」
廊下を歩いていると、突然、ガッと男子生徒が足を引っ掛けてきた。思わず前のめりになる体。このままでは再び、顔面からダイブだ。
しかし――
「とうっ」
「――って、ええ!?」
さっと両手を廊下に付いた私は、くるりと前転するように一回りをした後、膝を曲げてしゃがみ込んだポーズで止まった。
ふっ、決まったわ。
我ながら納得のいく受け身ができたことに満足していると、足をかけた男子生徒の舌打ちが聞こえた。
「ちっ、なんだよあの女」
「なーに失敗してんだよ、だせーな」
「うるせぇよ、馬鹿。いこうぜ」
これ以上は注目を浴びると思ったのか、男子生徒たちが足早に去っていく。
私はその場で立ち上がって、スカートの裾を軽く叩いた。
「凄いじゃない、ミリィ! 受け身、大成功だったね!」
明るい声で肩に手をかけるナタリー。私も振り返りながら、ニッと笑った。
「ナタリーのお陰だよ! 練習した甲斐があったわ!」
廊下での足引っ掛けがあまりにも多くなったので、怪我をしないようにと、ナタリーが受け身の取り方を教えてくれていたのだ。何度か寮でも練習を繰り返して、ようやく形になってきた。
「えへへ。今度は簡単な護身術とかも教えてあげるよ!」
「ありがとう! その時はぜひ、よろしくね!」
ナタリーと手を叩き合いながら教室に向かった。
こんな調子で、春から続く様々ないじめを、色んな人たちの協力を得ながら乗り越えてきた。
Aクラスの人たちは、私たちのやりとりを変わらず生温かく見守ってくれている。しかし、リュシアン殿下やオーレリア様との関係が遠い人たちほど、『王太子殿下に纏わりつく男爵令嬢』の存在が目障りに映るらしい。
つい先日の移動教室の時は、こんな感じだった。
「ああーっと! ミリィ、あんな所に綺麗な蝶がー!!」
「えっ!?」
突然大声をあげたナタリーが、私の腕をぐいっと力一杯引いた。思わずよろめきながら移動した次の瞬間。
ばっしゃぁん!
上から水が降ってきて、地面に跳ねた水飛沫が私たちの足元まで飛んできた。幸い、水は私たちにはかからなかったのだが。
上から小さな舌打ちと、バタタタっと廊下を走り去る複数の足音が聞こえてきた。
びっくりして固まってる私に、ナタリーがそっと顔を近づける。
「あれは、間違いなくミリィを狙っていたね」
「……そうだね。ありがとう、ナタリー」
お礼を言うと、ナタリーはニコッと笑った。
「ううん、気にしないで! さ、蝶もどこかに行っちゃったみたいだし、私たちも早く急ごう」
とまぁ、二階からバケツ水いじめには、こんなやりとりをした。
またある日、リュシアン殿下との昼食から戻ってみると――
「ミリィ、これ……」
「ま、もはや日常だよね」
私の机には落書きがあり、一本の雑草が入れられ花瓶が置かれていた。
だが、これはもはや、私にとって日常の風景でしかない。わざわざ雑草を取ってきてまで、ご苦労さまと言いたいくらいだ。
問題は、その後だった。
「………あちゃぁ」
机の中に入っていた教科書が、見るも無惨な姿に破れていた。
教科書破りなんて、いじめの定番中の定番である。だから、今は常にカバンに教科書を入れて持ち歩くことにしていたのだが、ついうっかり忘れてしまったらしい。
とほほ。教科書だって、タダじゃないのに。
「仕方ない。購買で買い直すか」
「ちょっと待って、ミリィ」
しょんぼりと呟いた私に、ナタリーが話しながら自分のカバンを漁り出した。そして中に差し入れた手を抜き出すと――
「じゃじゃーん!」
破られたものと同じだが、新品の状態の教科書を持っていた。
「さ、ミリィ。これを使って」
そう教科書を手渡されるが、本当に使っていいのか困惑してしまった。
「え? いいの? お金は?」
「ううん、気にしないで! それに、これはね。なんと、ヴァンガード伯爵家の蔵書印入りなのだー!!」
「ええ――っ!?」
まさかの学園のいち教科書に、ヴァンガード伯爵家の蔵書印が記されているとは!!
あまりの出来事に、私はしばらく、ぽかんと口を開けたまま固まってしまった。
「だからね、もしこれを次に破く人がいたとすれば、それはそのまま、ヴァンガード伯爵家に喧嘩を売ることになり、ひいては王太子殿下のお耳にまでその話が届くことになってしまうのだ!」
まるで、周りの人にも言い聞かせるかの音量で話すナタリー。Dクラスの壁際にいる人たちも、なんだか少し青ざめている気がする。
私の教科書を破る人への対策が、一気にスケールの大きい話になってしまい、私自身も少しびびってしまう。
「あ。ちなみに、他の教科書も全部用意してあるから、もし破られたら言ってね? もちろん、ノートもあるよ! こっちは蔵書ではないから、普通に家紋しか入ってないけど。また破られても面倒だし、もういっそ、全部こっちに入れ変えちゃう?」
なんて事ないような軽い口調で話すナタリー。いや、普通に冷静に考えて、田舎者の男爵令嬢が、伯爵家の蔵書印や家紋が入った教科書やノートを使うって、おかしくないか?
「い、いや、でもさっ! それって、イリオス様にご迷惑をお掛けするんじゃ――」
わざわざ教科書一式を揃えて、新しいノートまで複数購入して、さらには家紋や蔵書印までーー
「へ? これ全部、ヴァンガード伯爵令息から渡されたものだし、別にいいんじゃない?」
ナタリーはきょとんと不思議そうに首を傾げた。イリオス様、なんと言うことを……
私は手渡された新品の教科書を、恐る恐るさすりながら大事に抱えたのだった。
また、ある時の休み明けのことだ。
「うーん、いい香り」
籠から漂う甘い香りに満足しながら歩く。
あのクッキー作戦以来、私は定期的にお菓子作りをすることになった。リュシアン殿下が思いの外甘いものが好きだったこと。また、オーレリア様やイリオス様、ナタリー、Aクラスの一部の人が、私のお菓子を食べたいと要望してきたからだ。
ナタリーを除き、皆、私よりも断然家格が上の方たちである。だから、屋敷お抱えの料理人が作るお菓子の方が遥かに美味しいだろうに、なぜか「この素朴な味がたまらない」と大好評だったのだ。そのため、お菓子作りを重ねるたびに希望する人が増えていき、今ではAクラス全員が私のお菓子を食べたことがあるらしい。
さすがにそこまで来ると、量もかなり必要になるため、授業前の朝では時間が足らず、休日に作って翌日の朝に配ることになった。大量に作るには、やはりクッキーが一番お手軽なので、これまでに様々な種類の味で作ってきた。
今日は、リュシアン殿下ご希望の、ナッツ入りクッキーだった。食べ始めると「美味い!」しか言わなくなる殿下の様子が頭に浮かび、クスクス笑っていると――
ガッ
「うわっ!!」
突然足を引っ掛けられ、思わず前に突っ伏して転んでしまった。両手で籠を持っていたのもあって、油断してしまったようだ。
「――あっ!」
目線の先には、籠と中から飛び出たクッキーが転がっていた。半数近くのクッキーが廊下の床に落ちてしまったようだ。
「へっ、今度は成功したな」
ガリッ
落ちているクッキーを無造作に踏み潰され、私の心がズキッと痛む。
嫌らしい笑みをしながら見下ろしてくるのは、先日私に足を引っ掛けながらも、受け身を取られて悔しそうにしていた男子生徒だった。
「へっ。これに懲りたら、生意気な行動は控えるんだ……な…?」
男子生徒の顔が、サーッと青くなった。
「な――っ!?」
男子生徒の後ろにずらっと並ぶのは――
リュシアン殿下とオーレリア様を先頭に、イリオス様、アンナさん。そして、Aクラスの面々だった。
「………………………」
殿下とイリオス様は鋭い眼光で。オーレリア様と近くにいるご学友らしき女子生徒たちは、顔を隠しつつ温度のない目線で。そして、周りにいるAクラスの人たちは完全なる無表情で。
皆の視線は、ただ一点に絞られていた。
廊下に落ちた籠と、男子生徒の足に踏み砕かれたクッキーだった。
「あ………いや、その………」
もはや声にならぬ声を上げながら後退る男子生徒。私は、後ろから現れたナタリーに支えられ、静かに立ち上がった。ナタリーも、潰れて粉々になったクッキーに気づくと、目に冷たい光を宿した。
「………それは、私のクッキーだ」
一歩、前に出る殿下。それに合わせて、二歩三歩下がる男子生徒。
「私のための、クッキーだったのだ」
「……ち、違……その、これは……」
だんっ
力強い一歩と共に、リュシアン殿下はこの国の王太子さながらの威厳と威圧を持って言った。
「………貴様、覚悟はできているんだろうな?」
「も、申し訳ございませんでした――っ!!!」
転げそうになる勢いで、男子生徒は猛ダッシュで後ろに逃走したのだった。
私も心臓がバクバク音を立てていた。
あ、危なかった。私が作ったクッキーひとつで、あやうく彼の人生が終わるところだった。
「…………殿下。さすがにそれは、言い過ぎです」
「ふん! 私のクッキーを台無しにした罰だ。これくらい脅しても構わんだろう」
不貞腐れるように言いながら、殿下は籠の横にしゃがみ込んだ。「まだ籠に入っているものは食べられるか?」「殿下はさすがにお止めください」「その言い方、お前は後で食べる気だな」と、先程までの絶対零度の空気をまるで打ち消すかのようなやりとりは、まだドキドキしている私の耳には入ってこなかった。
「――怪我はないかしら、ミリアーナ」
「オーレリア様」
そっと労るように、オーレリア様が声をかけてきた。少し悲しそうに目を伏せている。
「はい、大丈夫です。オーレリア様」
「……クッキーのことは、残念だったわね」
やはり、クッキーを食べられなくなってしまったのが、一番悲しかったらしい。
「はい。ナッツ入りクッキーだったんですけど……」
「ナッツ入りクッキーですって!?」
「「「なに、ナッツ入り!?」」」
周りからざわっと声が上がる。オーレリア様も、ガバッと振り向いて落ちている籠に目を向けた。
「あれ、まだ中に入っているものなら――」
「もちろんお止めくださいませ、お嬢様」
すかさず、アンナさんの制止が入った。さすがは、公爵令嬢お付きの方である。
「あ、あの! また今度作ってきますので、落ちてるのは食べないでくださいねっ!」
そう叫ぶと、廊下中から小さなどよめきと歓喜の声が上がった。私からすれば雲の上にいるような、高位貴族の方々だけど、好きなものに対する表現は豊かなようだ。
もうそろそろ授業も始まってしまう。落ちている籠とクッキーを集めていると、イリオス様とナタリーがそばに来て手伝ってくれた。二人にお礼を伝えると――
「クッキー、美味かったぞ」
「えっ?」
イリオス様がボソッと小さく呟く。私は驚きの声をあげた。
「も、もしかして、落ちているのを――」
「いや、まだ籠に残っていたものだ。せっかく作ってくれたんだ。勿体無かったしな」
少しだけ気まずそうにイリオス様が笑う。こんな意外な一面を見て、私も何だかどぎまぎしてしまったのだった。
このように、様々な嫌がらせも続いたが、周りの協力のもとに乗り越えることができた。そして、この日の出来事を通して、Aクラス以外の一部の生徒たちの間で密かに囁かれていた「王太子殿下は、男爵令嬢に本気で惚れてしまったようだ」という噂は、もはや確定事項として学園中に広まっていったのであった――




