第五話 本当の死神
統一暦1925年、晩秋。
大陸に吹き荒れる風は日を追うごとに温度を下げ、空には重く垂れ込めた鉛色の雲が常駐するようになっていた。凍てつく雨は大地を泥濘から堅い凍土へと変え、塹壕で震える歩兵たちの体温と体力を容赦なく奪っていく。本格的な冬の到来は、あらゆる軍事行動を停滞させる。だからこそ、両陣営は雪が戦場を完全に閉ざす前に、少しでも有利な越冬陣地を確保しようと血眼になっていた。
最前線に位置する要衝、サン・メリエル高地。
かつては美しい修道院が建っていたその場所は、今やサントラ共和国とウール王国の強固な共同防衛陣地と化していた。無数の対空砲が天を睨み、堅牢なトーチカが山肌を覆い尽くしている。自軍がこの冬を乗り切るためには、何としてもこのサン・メリエル高地を陥落させ、補給線を確保しなければならなかった。
出撃を明朝に控えた前線基地の地下壕。
薄暗い裸電球が揺れる中、第1大隊第1中隊の兵士12名が集結していた。彼らの顔には、死地に赴く者特有の蒼白さと、張り詰めた緊張感が漂っている。無理もない。明日の作戦において、第1中隊に与えられた任務は「完全なる狂気」と言えるものだったからだ。
「……以上が、明朝の作戦概要です」
部隊の最前列で、エリス・サントリー中尉が淡々とブリーフィングを締めくくった。銀色の髪を後ろで束ね、華奢な体躯に不釣り合いな長銃身の魔道銃剣を背負う彼女の姿は、冷たい地下壕の空気と完全に同化しているように見えた。
「我々第1中隊12名は、夜明けと同時にサン・メリエル高地へ奇襲をかけます。目的は、敵の対空砲火の無力化、および高地を護衛するウール王国の精鋭航空魔道師団『王立グリフォン大隊』の引きつけです。我々が敵の目を引きつけている間に、本隊が地上から高地へ突撃を敢行します」
その言葉に、新兵の一人が耐えきれずに声を震わせた。
「ち、中尉殿……! 敵の防衛陣地へたった12人で突っ込むなど、自殺行為です! しかも相手は、あのウール王国の『グリフォン』ですよ!? 近接格闘と装甲の厚さでは大陸随一と言われる連中です。我々だけで勝てるわけが……っ!」
ウール王国の航空魔道師は、重装甲の防壁術式と大型の魔道戦斧を振り回す、空の重戦車とも呼べる存在だった。彼らと正面からぶつかれば、通常の魔道師など一溜まりもなく粉砕される。それが前線の常識であった。
「勝つ必要はありません」
エリスは表情を一切変えずに、冷徹な声で言い放った。
「我々の任務は敵の殲滅ではなく、本隊が到達するまでの時間稼ぎと局地的な攪乱です。それに……」
彼女は一歩前に出た。冷え切った地下壕の中で、彼女の氷のような青い瞳だけが、異常なほどの静かな熱を帯びて光っていた。
「あなたたちは、自分が誰の部下であるかを忘れたのですか」
その一言で、歴戦の古参兵であるマイヤー三曹、シュミット伍長、ワーグナー上等兵の三人は、思わず背筋を伸ばした。彼らは知っている。目の前に立つ小柄な少女が、たった数ヶ月で敵国から「白銀の悪魔」と名指しで恐れられるようになった、規格外の怪物であることを。
エリスは新兵から古参兵まで、一人一人の顔をゆっくりと見回した。
「戦場において、奇跡や神の加護は不要です。恐れることも、絶望することも許可しません。必要なのは、冷徹な計算と、それを実行するための引き金の重さだけです」
彼女は自身の背中越しに、使い込まれた魔道銃剣を親指で示した。
「不安なら、神に祈るのではなく、私の背中を見なさい。弾幕が濃ければ、私が切り裂きます。敵が堅ければ、私が撃ち抜きます。私が空を飛び、銃の引き金を引いている限り……死神すらも、あなたたちを追い越すことはできない」
静寂が地下壕を支配した。兵士たちの呼吸の音さえ聞こえない。
「地獄の底まで、私についてきなさい。私の指示から一歩も遅れなければ、必ず全員生きて、明日の夜は温かいスープを飲ませてあげます」
それは、軍の教本にあるような美辞麗句に彩られた演説ではなかった。
ただの事実の羅列。己の圧倒的な実力に対する絶対の自信。そして、部下を絶対に死なせないという、狂気じみたまでの決意表明。
「……第1中隊、聞いたな!!」
マイヤー三曹が、感極まったような、それでいて腹の底から湧き上がるような咆哮を上げた。
「中尉殿の背中から目を離すな! 悪魔の背中を追っていれば、俺たちは絶対に死なねぇ! 明日の夜、全員で生きてスープをすするぞ!!」
「おおおおおおっ!!」
死の恐怖に支配されていた兵士たちの目に、強烈な戦意と生存への執着が宿った。彼らにとって、エリス・サントリー中尉のその言葉は、いかなる防壁術式よりも強固な盾となったのである。
翌朝。未明。
気温は氷点下を下回り、空気中の水分が凍りついてキラキラと舞っている。
「スカイ」の推進機関が低い唸り声を上げ、12機の航空魔道師たちが、まだ暗い鉛色の空へと飛び立った。
眼下には、巨大な要塞のようにそびえ立つサン・メリエル高地。
『敵陣、距離5000。対空レーダーに捕捉されました! 敵の対空砲、一斉にこちらを向きます!』
最後尾を飛ぶワーグナー上等兵が叫ぶ。
「散開。パターン・デルタ。魔力は機動と防壁のみに集中し、術式による攻撃は厳禁です。弾薬の消耗を最小限に抑え、物理的破壊で対空砲を沈めます」
エリスの冷静な声が通信機に響き渡る。
直後、高地から無数の閃光が放たれた。
ズドドドドドドッ!!
空を埋め尽くすほどの対空砲の弾幕が、第1中隊に襲いかかる。通常の部隊であれば、この弾幕を前に恐れをなして高度を上げるか、無駄な防御術式を展開して魔力を枯渇させるだろう。
だが、第1中隊は違った。
「私に続け!」
エリスは「スカイ」の制動ノズルを極限まで駆使し、まるで重力という概念が存在しないかのような変態的な三次元機動で、弾幕のわずかな隙間を縫うように急降下を開始した。部下たちもまた、彼女の背中だけを道標にして、必死に食らいついていく。
「迎撃しろ! 落とせ!!」
地上の対空砲座でサントラ共和国軍の兵士が絶叫する。
エリスは対空砲の射程圏内に飛び込むと同時に、背中の魔道銃剣を抜き放ち、ボルトを引いた。魔力を一切込めない、純粋な徹甲弾。
ズガンッ!
彼女が引き金を引いた瞬間、放たれた鉛玉は、対空砲の砲身のわずかな隙間を正確に貫き、装填されていた砲弾を物理的に誘爆させた。
ドカァァァンッ! と、砲座が巨大な火柱を上げて吹き飛ぶ。
『第1砲座、沈黙!』
『よし、俺たちも中尉殿に続け! 撃てえっ!』
マイヤー三曹たちがエリスがこじ開けた防空網の穴から次々と飛び込み、地上の施設に対して正確な機銃掃射を浴びせていく。
「な、なんだあの部隊は!? たった12機で我々の防空網を突破するだと!?」
高地の司令部がパニックに陥る中、上空から野太い怒声が響き渡った。
「慌てるな、地上のネズミ共! 空の敵は我々『王立グリフォン大隊』が叩き潰す!」
雲海を突き破り、重厚な魔力光を纏った大部隊が姿を現した。ウール王国の誇る精鋭、およそ40機の航空魔道師たちだ。彼らの手には、銃剣ではなく、魔力を帯びて赤熱した巨大な戦斧が握られている。
『中尉殿! 敵魔道師団、来ます! ウールのグリフォンです!』
「想定通りです。迎え撃ちます」
エリスは地上から機首を反転させ、急上昇で敵の大部隊へと向かっていった。
先頭を飛ぶウール軍の小隊長が、エリスの機体を視認して目を剥いた。
「銀色の髪……まさか、情報局が警戒を通達していた『白銀の悪魔』か!? 丁度いい、ここで貴様の首を討ち取り、我らの武勲としてくれるわ!」
敵小隊長は巨大な戦斧を振り上げ、自らの機体を砲弾のように加速させてエリスへと突撃してきた。重装甲と大質量の突進。まともにぶつかれば、エリスの華奢な体など一瞬で挽肉になるだろう。
だが、エリスの表情は硝子細工のように冷たく、微動だにしない。
(直線的な突進。機動の自由度ゼロ。……ただの的です)
彼女は敵の戦斧が振り下ろされるコンマ一秒前、「スカイ」の片側のノズルだけを一瞬だけ全開にした。機体がコマのように横へスライドし、敵の渾身の一撃が空を切る。
「なっ!?」
敵小隊長が驚愕に目を見開いた時には、エリスはすでに彼の懐、ゼロ距離に潜り込んでいた。
エリスは魔道銃剣の銃床を敵の顎へ正確に叩き込み、脳震盪を起こして動きが止まった敵の胸板に銃口を押し当てる。
ズドンッ!
通常の徹甲弾が、至近距離からの物理的な運動エネルギーによって敵の重装甲をぶち抜き、心臓を粉砕した。血飛沫が凍てつく空に散り、ウール軍の精鋭が物言わぬ肉塊となって墜落していく。
「馬鹿な……小隊長が一撃で!?」
「ひるむな! 相手は一機だ、囲んで叩き潰せ!」
怒り狂ったグリフォン大隊の兵士たちが、四方八方からエリスに襲いかかる。
しかし、ここからが「白銀の悪魔」の真骨頂であった。
魔法による爆破など、この乱戦においては味方を巻き込むだけの愚策。彼女に必要なのは、純粋な戦闘技術のみ。
エリスは空中で急停止、後退、きりもみ回転を連続で繰り出し、敵の戦斧の嵐を紙一重で回避し続ける。重装備ゆえに旋回性能の劣る敵は、エリスの変幻自在な機動に完全に翻弄されていた。
キィンッ!
敵の戦斧を自身の銃剣の刃で受け流し、その反動を利用して空中で体を捻り、すれ違いざまに敵の頸動脈を刃で切り裂く。
カチャッ、ターン!
ボルトアクションの流れるような動作で空薬莢を排出し、次弾を装填。背後から迫る敵機の眉間を、振り向きざまの射撃で正確に撃ち抜く。
『中尉殿のカバーに入れ! 敵の背後を突くぞ!』
マイヤー三曹率いる第1中隊の面々も、エリスの神がかった戦闘機動に触発され、限界以上の動きを見せていた。エリスが敵の注意を完全に引きつけているため、彼らは面白いように敵の死角から銃撃を命中させることができた。
「化け物か……! なぜ当たらない! なぜ奴の銃弾は我々の装甲を抜くのだ!」
グリフォン大隊の指揮官であるブラッドリー少佐は、次々と血を噴いて落ちていく部下たちを見て、恐怖と怒りに顔を歪めた。
「ええい、下がれお前ら! 私が奴を真っ二つにしてやる!」
ブラッドリー少佐は自身の魔力を限界まで戦斧に注ぎ込んだ。斧の刃が太陽のように眩く輝き、周囲の空気を焼き焦がす。
「死ねえええっ! 白銀の悪魔!!」
少佐は最大出力でエリスへと突進した。その速度と質量は、もはや一つの巨大な質量兵器であった。
エリスは静かに息を吐いた。
(魔力出力最大。物理的装甲による防御は不可能。ならば……)
エリスは逃げなかった。逆に「スカイ」を加速させ、真正面からブラッドリー少佐へと向かっていった。
「狂ったか! そのまま潰れろ!」
激突の瞬間。
エリスは自らの魔道銃剣に、ほんのわずかな魔力を流し込んだ。
(術式展開。限定的装甲剥離、および『貫通付与』)
彼女は引き金を引かなかった。代わりに、敵の振り下ろす戦斧の軌道に対し、自身の銃剣の刃を極限の精度で合わせ、下から上へと斬り上げた。
ガギィィィィィィンッ!!!!
空を裂くような金属の破裂音。
エリスの銃剣に付与された「貫通」の術式と、彼女自身の恐るべき動体視力が、ブラッドリー少佐の戦斧の「魔力の継ぎ目」を完全に捉えていた。
無敵を誇った少佐の巨大な戦斧は、エリスの細い銃剣によって真っ二つに叩き割られた。
「な、あ……!?」
武器を失い、完全に体勢を崩した少佐の目の前で、エリスはくるりと銃を反転させ、銃口を彼の顔面に向けた。
「さようなら」
乾いた発砲音。
徹甲弾が少佐の頭部を貫き、ウール軍最強と謳われた大隊長の命をあっさりと刈り取った。
「た、隊長がやられた……!」
「悪魔だ……! あんなものに勝てるわけがない! 逃げろぉっ!!」
指揮官を失い、すでに半数近くをエリスたった一人に撃墜されたグリフォン大隊は、完全に戦意を喪失し、蜘蛛の子を散らすように逃走を始めた。
『敵航空魔道師団、撤退していきます! 地上の対空砲座も沈黙!』
シュミット伍長の歓喜の声が通信機から響く。
エリスは静かに銃を下ろし、硝煙を風に流した。
「深追いは不要です。我々の任務は達成されました。これより本隊が地上から突入します」
彼女の眼下では、対空の脅威が消え去ったサン・メリエル高地に向けて、味方の地上部隊が怒涛の進軍を開始していた。難攻不落とされた要塞は、たった12機の魔道師……否、たった一人の「白銀の悪魔」によって、その防衛の要を完全に粉砕されたのである。
戦闘終了後。空域の哨戒を終えた第1中隊は、無事に前線基地へと帰還した。
戦死者ゼロ。負傷者数名。敵精鋭大隊撃退。
それは、軍事史に残るであろう奇跡的な戦果であった。
凍てつく基地の食堂。
約束通り、温かい肉入りのスープが振る舞われ、兵士たちは涙を流しながらそれをすすっていた。
「俺たち、本当に生き残ったんだな……」
新兵の一人が、震える手でスプーンを握りしめながら呟く。
マイヤー三曹はスープを一気に飲み干すと、食堂の隅で一人、静かに銃の手入れをしている小柄な上官の背中を見つめた。
「言っただろう。神に祈るより、あの背中を見ていれば死なねぇってな。……俺たちは、最高の死神に拾われたんだよ」
エリス・サントリー中尉。
「白銀の悪魔」の伝説は、敵国に恐怖を植え付けるだけでなく、味方にとっては絶対的な生存の象徴として、深く静かに根を下ろし始めていた。
だが、彼女自身はそのことになんの興味も抱いていない。ただ淡々と、明日の戦闘のために銃のボルトを磨き続けるだけであった。




