流離の葛篭・溝出:第十話
若干のホラー表現、グロテスクな表現を含みます。
抱えた葛篭は、私の腕の中で微かに震えながらゆっくりとその蓋を開けきった。
私は手を触れてもいないのに、よ?
ゴトリと蓋が床に落ちた途端、悲鳴を上げる男の身体がとうとう床に崩れ落ちた。
土気色の顔をこれ以上ないほど恐怖に歪ませて、尻もちをついたまま葛篭から距離を取ろうとする。
……そんなことしたって逃げられやしないのに……。いろいろと可哀想な人だと思う。
全身にびっしょり冷や汗をかきながらお店の入り口まで必死で這って行って、ガラス戸に手をかけるけど……。
「っっ、なん……なんであかねぇんだっ! クソっっ! クソッッ!!!」
渾身の力を込めてるように見えるけど、ドアが開かないみたい。
半狂乱の男がドアをがたがた揺さぶるけど、それでもぴったりと締まったドアが開く気配は全くない。
「なぁ、おいっ! 誰か外にいるんだろ! なぁ、開けろっっ! あけてくれっっ!!」
外から押さえつけられてると思ったんでしょうね。
ドアをガタつかせながら外に向かって叫んでるけど、たぶんこれも意味はないと思うのよね……。
……だって、ココ、いつものお店の場所じゃない所にあるような気がするもの。
なんていうか、こう……ほんの少しだけ次元がズレてるというか……。うぅん……上手く説明ができなくてごめんなさいね。
多分だけど、ここでどんなに大声で騒いでも外に声が届かないどころか、私たちの姿すら見えてないじゃないかしら?
正直、こんな超常的なことが起きてるのに落ち着いてる自分も信じられないけど、こちらもなんだか心に幕が一枚かぶさってる感じというか……ちょっと離れた場所でキネマを見てるような気分なの。
これも、私が人の理から外れたせいなのか、はたまた川に投げ込まれて一度死んだ(?)時に、心のあちこちも一緒に死んじゃったのか……もしかしらら、そのどっちもなのかも。
……そんなことをぼんやり思っているうちに、男に向かうように足が一歩前に出た。
「っ、ヒッッ! やめ……くるなっっ!」
私の足音に気が付いたのか、男の顔色が土気色を通り越して紙のように白くなってる。
それでも、私の足は止まらない。ガラス戸を背に行き止まってる男の前に歩み寄る。
もう男の目の前……というところまでやってきて、中から漂う潮の匂いに甘ったるい匂いが唐突に混ざった。
……嗅いだことはないけど、なぜか不思議と確信が持てた。
腐った、肉の臭いだ。
「こ、こんな……こんなことってあるかよっっ!」
唾を飛ばしながら怒鳴る男を眼前に、ふと葛篭が僅かに重たくなったような気がした。
それと同時に、空っぽのはずの葛篭の中で何かがズルリと動く気配がする。
微かに歌が聞こえる。獺の船頭さんに乗せてもらって、海に出た時に聞いたあの歌だ。
「……あら……」
最初に出てきたのは、枯れ枝みたいな細い指。それが、葛篭の縁にかかる。
続いて、白い髪が……正確に言うなら、所々髪の毛が抜けてまだらになったザンバラの白髪頭がぬうっと現れる。
そこからはもうあっという間だった。
折れそうな……というよりも完全にぼきりと折れた細い首が。ちょっと触っただけで砕けそうな薄い肩が……。
そして、腹部を真っ赤に染めた老婆がぽっかりと開いた葛篭の中から這い出して、逃げるに逃げられない男に迫る。
骨と皮みたいな足が葛篭から抜けていったのを見送って、私はちょっとだけ息を吐いた。
……私の役目は、これでおしまい。そんな考えが、ふと頭をよぎる。
「ヒ、ヒィッッ! ぎゃあぁっっ! やめ……くる、くるなっ! くるなぁっっ!!」
喉も裂けよと叫んだ男が、恐怖に目を見開きながらブンブンと腕を振り回す。
少し離れてる私に当たらないのは当然だけど、もう顔と顔がくっつきそうなくらい近くにいる葛篭の中の人にも腕が当たってる様子がないのはちょっと不思議よね。
もう完全に逃げられなくなった男の目の前に立った葛篭の人が、今にも折れそうな手で男の顔を掴んだ。
……うぅん。掴んだっていうか、両掌で頬っぺたを包み込んで、むりやりに視線を合わせた、って言うのがあってるかも。
『…………縺九∴縺……』
「は、はぁ!?」
『繧上◆縺励?縺溘°繧峨b縺ョ縲√°縺医○』
顔にぽっかりと穴が開いたように見えたのは、ただ口が開いただけだったみたい。
真っ黒な虚ろの奥から漏れ出るのは、この世のものとは思えないのたうつような音だった。
私はあんまり気にならないけど、生きてる人間にとっては不快そのもの……みたいに感じるんじゃないかしら?
壊れたレコードみたいに「返せ」と繰り返す葛篭の人の目が、クワッと見開かれた。
白く濁った眼は、完全に腐りきっているように見えた。切れた眦からどす黒い血が流れる。
『縺九∴縺帙°縺医○縺九∴縺帙°縺医○……!』
「ぎゃ、ぎゃああ!!!!!!」
それと同時に、葛篭の人の指先が男の頬を突き破り、ズブズブと肉にめり込んでいく。
あー……アレは痛そうねぇ……。でも、葛篭の人の気持ちを考えたら、それも仕方ないような気がするのよね。
「まぁ、殺されて捨てられた挙句に大事にしてたモノを盗まれて、売り払われようとしてるんじゃあねぇ……」
「因果応報ってやつですかねぇ……」
いつの間にか後ろに来ていた周さんの声に、そんなことをなんとなく思った。




