縄文09 鹿
森の中は、昼だというのに薄暗かった。
南条アリスは、何度も後ろを振り返っていた。
もう集落の煙は見えない。
湿った落ち葉を踏むたび、ぐしゃりと嫌な音がする。
聞いたことのない虫の声が絶え間なくどこかで鳴いている。
風が枝を揺らすたびに、何か別の生き物が動いたような気がした。
昨日、暗闇の中で光っていた獣たちの目が頭から離れない。
「むりむりむり……」
自分でも情けなくなるくらい小さな声だった。
そんなアリスとは対照的に、女の子は慣れた様子で歩いていた。
時々しゃがみ込み、草の根を掘ったり、木の実を拾ったりしては、当たり前みたいな顔でアリスの抱えている籠へぽいぽい放り込んでいく。
え。
……私、運搬係ってことだった?
女の子はなぜかちょっと得意そうだった。
……まぁいいけど。
ぽい、ぽい。
近くを歩いていた別の子どもまで何か実を拾ってきて、当然みたいな顔で籠へ入れていった。
……ま、まぁいいけど。
「ほんとにこれ食べるんだ……」
木の実や草がだんだん増えるのはいいけれど、残念ながら美味しそうには見えない。
そう思った直後だった。
近くの茂みが、ばさっと大きく揺れた。
アリスの足が止まる。
女の子も動きを止めた。
さっきまで耳についていた森の音が、急に遠くなった気がした。
男たちの空気が変わる。
張りつめるというより、獲物へ一斉に意識が向いた感じだった。
黒い影が茂みを突き破る。
「うわっ!?」
鹿だった。
思っていたより、ずっと大きい。
テレビで見る鹿なんて、もっとおとなしいイメージだったのに、目の前のそれはただの暴力みたいな勢いで突っ込んできた。荒い息を吐き、土を蹴り上げ、まっすぐこちらへ向かってくる。
男たちが叫ぶ。
槍が動く。
網が広がる。
鹿は槍をかわすように進路を変えた。
まずい。
こっちだ。
周囲の人たちが一斉に身を引く。
けれど、ひとりだけ遅れた若い男がいた。
足を滑らせたのか、体勢が崩れている。
鹿は一直線だった。
危ない。
頭の奥で、レンの声がよみがえった。
カードゲームで、アリスがまた無茶な突撃をした時のことだ。
『お前また突っ込みすぎ』
呆れた顔でカードを置くレンに、アリスはふくれた。
『勝てばいいじゃん!』
レンは笑った。
『イノシシかよ、お前。イノシシって、突っ込んでくる分には強いけど、直前で横に避けられると弱いんだぞ』
『むきーーっ!! 誰がイノシシよ!!』
……なんで今そんなの思い出すの。
しかも鹿だけど!!?
体はもう動いていた。
籠を放って、前へ。
「うわあああっ!!」
若い男へ飛びつく。
「!?」
二人まとめて横へ転がった。
次の瞬間、すぐ横を鹿がものすごい勢いで駆け抜ける。
地面が揺れた気がした。
木へぶつかる鈍い音。
男たちの叫び。
網。
泥。
そして、押し殺せない獣の悲鳴。
アリスは地面に伏せたまま顔を上げられなかった。
テレビの中じゃない。
ゲームでもない。
……本物だった。
やがて暴れる音が止む。
残ったのは、荒い呼吸と、踏み荒らされた森の匂いだけだった。
アリスは恐る恐る顔を上げる。
すぐ隣で、助けた若い男がぽかんとこちらを見ていた。
ぼさぼさの長い髪。泥だらけの顔。日に焼けた肌。腕には細かな傷がいくつもある。
でも、目だけは妙に優しかった。
男は、まだ何が起きたのか分からない顔のまま、困ったように少し笑った。
その顔を見て、アリスの張りつめていたものが、ほんの少しだけほどける。
次の瞬間、まわりの男たちが一斉に声を上げた。
驚きと興奮が入り混じったような声だった。
誰かがアリスの肩を、ばしばし叩く。
「いっ、痛い痛い!!」
当然通じない。
でも、みんな笑っていた。




