飛鳥03 木簡
外の騒ぎが静まったのは、それからしばらく経ってからだった。
さっきまで聞こえていた怒鳴り声も、走り回る足音も遠ざかり、部屋には静かな空気が戻っていた。
戸口の隙間から外をうかがっていたカマッタリは、小さく頷くと、アリスへ手招きをした。
「……?」
「△□……コイ……」
カマッタリは胸を指さし、それから外を指す。
アリスは小さく頷き、そっと部屋を出た。
夕暮れの空は赤く染まり始めていた。
逃げてきた時に見た大きな瓦屋根の建物が、遠くに見えた。
瓦は夕日を受けて鈍く光り、その姿は周囲から浮き上がり、その大きさもあって一際異彩を放っていた。
カマッタリは人目を避けるように細い道を歩いていく。
アリスも黙って後を追った。
埴輪村で見たような土壁に茅葺き屋根の建屋ばかりだ。
瓦屋根は一つもない。
それでも埴輪村より新しい技術が確かに混ざっていて、どの家も作りがしっかりして見えた。
「……」
不思議な景色だ。
夕焼けに染まる村を、大きな瓦屋根の建物達が見下ろしている様な、古い物と新しい物が混ざった町並み。
急に未来へ来たようでもあり、まだ昔のままのようでもある。
やがてカマッタリは、一軒の家の前で足を止めた。
他の家より少しだけ大きい。
太い柱で組まれた木の家だった。
屋根は茅で葺かれているが、壁も柱も丁寧に作られていて、どこか落ち着いた雰囲気がある。
青年は戸を開けると、アリスへ入るよう促した。
「……おじゃまします」
もちろん伝わらない。
それでも小さく頭を下げ、中へ入る。
そこは、確かに玄関だった。
土間でカマッタリがわらじを脱ぐので、アリスも靴を脱いだ。
板張りの床に足を乗せると、ぎしりと音が鳴る。
薄暗い廊下に夕日が差し込み、カマッタリが進んでいくその後ろをアリスはついていく。
なんか懐かしい。
田舎のおじいちゃんの家みたいだ、とアリスは思った。
おじいちゃんの家も、こういう木で出来た家で、広い土間があった。
すぐ先に台所らしい土間があり、かまどや大きな壺が並んでいた。
三人の女の人が、湯気のたつ土師器でなにか料理を作っているのが見える。
いい匂いだ。
それを横目に青年は先に進み、囲炉裏のある部屋にアリスを手招きする。
部屋と言っても扉はなく、衝立で仕切られた場所だ。
カマッタリは囲炉裏のそばへ腰を下ろす。
そして、アリスへも座るように手を差し出してみせる。
板の間の上に草で編んだ筵が置かれていて、そこにアリスは腰を下ろした。
囲炉裏では、黒く煤けた土師器の鍋から湯気が立ち上っていた。
青年は木の柄杓で湯をすくい、小さな木の器へ静かに注ぎ、アリスへ差し出した。
飲め、ということだろう。
両手で受け取り、少し躊躇するような顔をすると、青年は自分の器へ口を付けてみせる。
それを真似て一口飲む。
「あったかい……」
ただのお湯が、こんなにも美味しいなんて……。
張りつめていた体から、少しずつ力が抜けていく。
ゆっくりと全てを飲み干し終えて、器を床に置く。
顔を上げると、青年がじっとこちらを見ていた。
「カマッタリ、ありがとう」
カマッタリなら、少しずつ自分の言いたいことを理解してくれる気がした。
するとカマッタリは、アリスの言葉に反応し、口元をわずかに緩め、頷いた。
やっぱりその姿はどこかレンに似ていた。
整った顔立ちも、真面目そうな雰囲気も、兄を思い出させる。
カマッタリは、上を指さしてからアリスを見て言う。
「▽◁◆……アリス◇◁……テンヨリ……キタ?」
何処かで聞いたような低い声。
カマッタリはゆっくり丁寧に言葉を響かせる。
天より来たのか? と、聞いているようだ。
きっとカマッタリは、アリスが瓦の山に落ちたのを見ていたのだ。
「うーん……。落ちたけど、天ではないよ」
天ではない。
でも、落ちてきた。
カマッタリはそれを聞くと、首を傾げて腕を組んだ。
「アリス……ナニモノ?」
ハッキリと聞こえた言葉に、つい泣きそうになる。
あたしは、普通の女の子だ。
中学一年生で、ママが大好きで、家に帰りたいだけで……。
「普通の女の子だよ」
アリスの目に浮かんだ涙を、カマッタリは見逃さずに見つめていた。
「ヨルベナシカ?」
ヨルベ?
アリスが首を傾げると、カマタリは不意に立ち上がり、部屋を出ていく。
え?
アリスは部屋に取り残され、一人で唖然とする。
一体何だろう?
ヨルベ? なし?
数分経った頃、カマッタリは戻ってきた。
二人の女の人が、木のお盆を持ってその後からやってくる。
安心したアリスの鼻に、美味しそうな匂いがふわりと漂い、あっという間に目の前にご飯が並んだ。
ご飯に汁物、漬物に小魚。
質素なメニューだが、今のアリスにとってはご馳走で、思わず唾を飲み込んだ。
今日一日、何も食べていない。
「……いただきます」
両手を合わせ、小さく頭を下げるその姿に、女性たちは不思議そうに顔を見合わせたが、誰も何も言わなかった。
木の匙で汁を口へ運ぶ。
優しい味だった。
漬物なんて、家でほとんど食べたことがなかったのに、塩気がきいていて美味しい。ポリポリする歯ごたえもたまらない。
夢中で口へ運ぶアリスを見て、女たちはどこか安心したように微笑む。
カマッタリは、黙ってその様子を眺めていた。
食事を終えると、アリスは器を両手で持ち上げる。
「ごちそうさまでした」
言葉は伝わらない。
それでも頭を下げると、女性達も笑顔で頷いてくれた。
食べ終わった食器が女性達により片付けられていく中で、ふとアリスは、顔を下げた先の木の床に、黒い染みを見つけた。
「あれ?」
食事中に零したのかもと思い指で触る。
「……あ、これ、墨」
おじいちゃんの家と同じだ。
おじいちゃんは、書道の先生で、いつも筆を持って何かを書いていた。
こんな風に、あちこち墨が垂れた跡があって……。
それに、この匂い。
この匂いは、墨の香りだ。
だから、この家が懐かしい気がしたんだ。
顔を上げると、こちらを見つめるカマッタリと目があった。
「スミ……ショ◇◆■かく」
何を言っているのか分からない。
アリスは墨の匂いが気になって部屋の中を見渡すと、奥の棚に、筆と硯があるのを見つけた。そこには、本や木の札のような物が沢山並んでいる。
やっぱりだ。
カマッタリは書道をやるのだ。
「■◆……スミ△◁……」
アリスが墨に興味があるのが分かったようだが、言葉の意味は分からなかった。
それよりも、アリスは、紫色の布に包まれた本が気になっていた。
本があるというだけで、アリスは少し嬉しくなる。
筆や墨や硯もそうだ。
今まで、あまりにも何もなかったから、たったそれだけが、不思議と希望に思えた。
アリスは立ち上がって、棚へと近づく。
カマッタリがピクリと反応したが、そのままアリスは進んでいく。
布に包まれた巻物が一巻、棚の端に大切そうに置かれている。
木簡とは違い、紙をつなぎ合わせて巻いた書物らしい。
そこで、アリスの視線が止まった。
本ではない。
本なんかより――その上の段に飾られた木の札の束。
古びた木の札なのに、アリスの目はそれに釘付けになっていた。
木の表面には、墨で文字が書かれている。
『一曰、以和爲貴、無忤爲宗』
読めない。
読めないのに。
意味がまるで分からないのに。
それでも。
なぜかその木の札に目が奪われて、離せなかった。
「……ママ?」
思わず、声が漏れた。
この字。
ママの字に似ている。
「…………」
そんなはずない。
ここがいつの時代なのかも分からないけれど、ママがいるはずなんてない。
それなのに。
いきなり大好きなママが目の前にいるような錯覚に襲われて、アリスはぎゅっと胸を押さえた。
「……似てるだけだよね」
後ろから、カマッタリの低い声が響いた。
「ウマヤドオウ」
「うまやど?」
振り返ると、カマッタリは木の札をまっすぐ見つめ、静かに頭を下げていた。




