古墳01 あなたはいらない
朝の光がレースのカーテンを透かし、リビングの床へ白く広がっていた。
テレビでは天気予報が今日の降水確率を説明していて、その声に混じって味噌汁の湯気が立つ匂いが流れている。
ごく普通の朝だった。
紫はIHヒーターを止め、味噌汁を椀によそう。
背後ではテーブルに座った伊太郎が、納豆を混ぜながら首だけ捻ってTVを見ている。
「おお」とか「へえ」とか意味不明な相槌を打っている伊太郎に、紫はクスリと笑う。
「納豆おとさないでよ? この前もテーブルがねばついてたのよ?」
「んー、ごめん、わかってるよ」
「そう」
伊太郎はTVから目も離さずに応える。
いつもの朝の会話だった。
紫はネギを散らした味噌汁を伊太郎の前へ置く。
すると二階から、アリスが目を覚ましたらしい物音が聞こえた。
やがて階段から、ふらふらと寝ぼけたアリスが姿を現す。
ボサボサの髪の毛の間から覗く目はほとんど開いていない。
可愛らしい桃色のパジャマをだらしなく着崩したまま、ソファへ倒れ込む。
いつものアリスだった。
「おはよー、アリス」
伊太郎の声に、うむうむーと曖昧な返事を返す。
そのままソファの上でごそごそと動き、もう一度寝るための姿勢を探し始めた。
「おはよう、ありちゃん」
「おは……よう、ママ……」
伊太郎の時とはうって変わって、幸せそうにちゃんと返事を返すアリスに、紫は口元を綻ばせた。
けれど、ふと視線が止まる。
何か、いつものアリスと違う。
……最近、こういう事が増えた気がする。
理由はよく分からない。
目の前にいるのは間違いなくアリスだ。
寝起きの悪さも、だらしない座り方も、返事をしながら二度寝しようとするところも変わらない。
それなのに、なぜだろう。
ほんの一瞬だけ、違和感が胸の奥を掠める。
「ありちゃん、ご飯。時間なくなるわよ」
「んー……」
「起きなさい」
「んー……」
「もう、起きなさい」
「起きるぅ……」
そう言いながら全く起きる気配のない娘に、紫は腰へ手を当てる。
「こらぁ! 早く!」
「ママ、わかったってばー」
目を閉じたまま身体を起こすアリスは、やっぱりアリスだ。
変なことを考えている自分がおかしい。
そう思った。
「いってきまーす」
ご飯を終えた伊太郎が立ち上がり、玄関へ向かっていく。
アリスもいつも通り世話を焼きまくってやって、ようやく朝食を食べ、支度を済ませて学校へ向かった。
学校へ行ったあと、脱ぎ散らかされたパジャマを片付けていた時も、少しだけ気になった。
このパジャマ、最近、妙に綺麗だ、と。
寝相の悪い娘が着ていたとは思えないほどにシワがない。
中学生にもなれば少しずつ大人になる。
伊太郎は最近そんな事を寂しそうに呟いているけれど、そういう事なのだろうか。
でも紫は手の中のパジャマを見つめたまま、しばらく動かなかった。
妙に綺麗だった。
ただ、それだけだ。
それだけなのに、なぜか引っ掛かる。
「何考えてるのかしら、私」
紫は苦笑すると、洗濯かごへパジャマを放り込んだ。
気のせいだ。
きっと。
◇
目の前に白い世界が広がっていた。
見覚えのある視界に、アリスは嫌な予感を覚える。
何もない。
上も下も分からない。
床があるのかどうかさえ分からないのに、不思議と落ちることもなかった。
白い。
どこまでも白い。
そして静かだった。
音がない。
風もない。
匂いもない。
まるで世界そのものが消えてしまったみたいだった。
「……また」
アリスは唇を噛む。
知っている。
ここを知っている。
私はここに来たことがある。
あの日だ。
全部が始まった日だ。
思い出した瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。
逃げなきゃ。
けれど足は動かなかった。
白い空間の向こう側に、ぼんやりと何かが浮かび上がる。
無機質に光るそれは、巨大なガラスだった。
透明な壁が、すぐそこにある。
そして、その向こう側に誰かが立っていた。
アリスは息を止める。
制服姿の少女だった。
アリスは目を見開く。
長い髪をポニーテールにした、見慣れた顔。
見慣れた目。
見慣れた制服。
……鏡みたいだった。
でも違う。
鏡じゃない。
自分だった。
ガラスの向こうにいる少女は、アリスとまったく同じ顔をしていた。
少女は黙ったまま、こちらをじっと見ている。
その冷たい瞳に、アリスは無意識に一歩後ろへ下がる。
少女は動かない。
ただ見ている。
じっと。
ずっと。
まるで何かを確かめるように。
やがて少女の唇がゆっくり動いた。
「あなたはいらない」
ガラス越しのはずの声は、アリスの頭の中で静かに響く。
意味が分からなかった。
分からないはずなのに、その言葉は胸の奥へ鋭く突き刺さる。
「……なに、それ」
アリスの問いに、少女は答えない。
代わりにガラスへ手を当てた。
白く細い指。
アリスもつられるように手を伸ばす。
同じ手がガラス越しに重なる。
同じ顔。
同じ姿。
なのに。
まるで別の生き物だった。
少女は小さく笑う。
その笑顔を見た瞬間、アリスの背中を嫌な汗が流れた。
アリスの怯えに、その少女はますます笑みを広げる。
それは、アリスには絶対に出来ない笑みだった。
「だって」
少女の声が、またアリスの頭の中へ静かに響く。
「もう私がいるもの」
小さな音が響いた。
まるで悲鳴のような、ガラスが割れる音。
少女の手の下から細いひびが伸びる。
そのひび割れは蜘蛛の巣のように広がっていった。
ガラスが割れていく。
それと同時に、白い世界も震え始める。
ガラスが割れる。
世界までもが割れていく。
視界が反転する。
アリスは思わず叫んだ。
その瞬間、足元が消えた。
◇
身体が何かへ叩きつけられた。
「いったぁぁぁっ!」
情けない悲鳴と共に目を開ける。
全身が痛い。
特に尻が痛い。
涙目になりながら辺りを見回したアリスは、そのまま固まった。
目の前に顔があった。
丸い目。
横に開いた口。
土色の肌。
無表情。
人間みたいで人間じゃない顔。
「……へ?」
横を見る。
いた。
反対側にも。
いた。
さらに棚の上。
いた。
窓際。
いた。
足元。
いた。
部屋中にいた。
無数の土の顔が、こちらを見ていた。
アリスは数秒ほど硬直し、絶叫した。
「ぎゃあああああああああああああっ!!」




