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弥生19 ケンケンパ

広場へ駆け戻ったアリスは、思わず足を止めた。


炎に照らされた広場には、まだ大勢の村人達が残っていた。子供を抱き寄せる母親、荷物を胸に抱えた老人、不安そうに顔を見合わせる男達。


ヒイラギもいた。おばあちゃんもいた。


誰も……逃げていない。


どうして?


火が周囲の建屋を取り囲み始めているのに、皆、広場の中で右往左往するばかりだった。


胸の奥が冷たくなる。


「早く、逃げて!!!」


あれだけ必死に時間を稼いだのに、その場から一歩も進めていない事が、アリスには理解できなかった。


遠くから男達の怒号がまた聞こえ始めた。


まだあの場所に兵士達は止まっているはず。

けれど、いつまでもそのままではないだろう。

他の兵士達も、後方から続々と集まっているのだ。

時間は、もう殆どない。


アリスはヒイラギの元へ駆け寄った。


「逃げて!」


伝わらない。


ただ、ヒイラギは困ったように首を傾げている。

おばあちゃんは、またアリスに手を合わせて拝み始めた。


どうして。

どうしてなの。


アリスはその場に膝から崩れそうになる。


どうして、逃げないの?


このままじゃ、みんな、みんな……。


違う。


まだ、諦めない。


アリスは足に力を込めて、また立ち上がる。


「逃げよう!」


そして、兵士達とは反対の方向を指差した。


村の裏側。田んぼの向こう。とにかく、あっちだ。


「あっち! 行って!」


腕を振り回しながら叫ぶ。


それでも誰も動かない。


言葉が通じないだけじゃない。

少しは伝わっているはずだ。

それでも、動かないのは、動けないからだ。


どこへ行けばいいのか分からない。

何を信じればいいのか分からない。

燃える家々を見ながら、ただ立ち尽くしている村人達。


この村が、この人たちにとって、全てだったのかもしれないから。


どうする。


どうすればいい。


焦りだけが膨らんでいく。


その時、懐のスマホが震えた。


【レン】大丈夫か


【レン】逃げたのか


【レン】返事しろ


【レン】アリス


【レン】頼む


立て続けに届くライメッセ。


返事をしたかった。


大丈夫だと伝えたかった。


けれど今は、それどころじゃない。


アリスがスマホを握りしめたその時、広場の端から子供の泣き声が聞こえた。


顔を上げて、そちらを見ると、母親に抱かれた子供の泥だらけの顔があった。


見覚えがある。


田んぼで転びながら笑っていた子だ。


その姿を見た瞬間、別の光景が頭の中に浮かんだ。


地面に描いた丸。


跳ね回る子供達。


笑い声。


――ケンケンパ。


アリスは弾かれたようにしゃがみ込んだ。


近くに落ちていた焼け焦げた木切れを掴み、立ち上がる。


どっちだ。


私達が逃げる方向は。


男達がいる方の反対。

そして、一番この村から出られそうな柵の方へ。


アリスは夢中で木切れを使い、地面を引っ掻いた。


丸を描く。


もう一つ。


さらにその先へ。


もっと。


もっと。


自分でも分からない。


でも、もう、これしか思いつかなかった。


アリスは必死で地面に丸を描く。


村人達が不思議そうに見守る中、アリスは立ち上がった。


そして最初に描いた丸へ飛び込む。


大きく息を吸い込むと、焦げた匂いに思わずむせた。


それでも構わない。

アリスは叫ぶ。


「ケン!」


次の丸へ。


「ケン!」


両足で着地する。


「パ!」


足を開いた姿勢のまま振り返る。


子供達が見ている。


皆も見ている。


早く。


早く。


気付いて。


アリスはもう一度飛んだ。


「ケン!」


「ケン!」


「パ!」


今度は広場の出口へ向かって。


「ケン!」


「ケン!」


「パ!」


泣いていた子供が動いた。


恐る恐る丸へ足を乗せる。


ケン。


ケン。


パ。


転びそうになりながら跳ぶ。


その姿を見た別の子供が笑った。


さらにもう一人。


また一人。


子供達が丸の後ろへ並び始める。


アリスはヒイラギの元へ駆け戻った。


何も言わず、その腕を掴む。


続けて、おばあちゃんの手も握った。


「来て!」


当然伝わらない。


それでも構わなかった。


戸惑う二人を半ば無理やり引っ張りながら、アリスは地面に描いた丸へ飛び込む。


ケン。


ケン。


パ。


その後ろで子供達が真似をする。


一人が飛べば、もう一人も続く。


泣いていた子供の声が止んだ。


その後を追うように母親達が歩き始めた。


立ち尽くしていた老人達も、流れに押されるように足を動かしていく。


誰かが動けば、誰かも動く。


止まっていた広場は、ゆっくりと、しかし確実に流れ始めていた。


アリスは振り返らない。


ただ前へ進む。


ケン。


ケン。


パ。


火の粉が舞う、燃える家々の間を抜ける。


ケン。


ケン。


パ。


壊れた柵を越える。


ケン。


ケン。


パ。


そして最後の柵を飛び越えた瞬間だった。


背中を焼いていた熱気が遠ざかる。


焼けた藁の臭いも薄れていく。


代わりに流れてきたのは、夜露を含んだ冷たい風だった。


アリスは思わず立ち止まる。


村を出たその向こう、火の海の外には、まだ夜が残っていた。


振り返れば、村は赤く燃えている。


けれど、頭上には星があった。


煙に隠されていた空が広がっていた。


肺いっぱいに空気を吸い込む。


熱くない。


煙くない。


それだけで泣きそうになる。


アリスは荒い息のまま顔を上げた。


身体の力が抜けていきそうだった。


でも、まだ、ここは安全じゃない。


まだ、もっと先へ。


その先には黒い山並みが続いていた。


町へ向かう途中、この辺りは何度も歩いた。


田んぼの脇にも、森の奥にも、山へ続く細い道がいくつもあったのを覚えている。


アリスは山を指差した。


「あっち!」


伝わらなくても構わない。


とにかく、山へ逃げる。


どんぐり達も山で暮らしていた。


木の実があり、水があり、獣もいる。


生き延びるだけなら出来るはずだ。


少なくとも、燃え盛る村に留まるよりは。


今は進むしかない。


東の空が、わずかに色を変え始めていた。


黒かった夜の端に、薄い灰色が滲んでいる。


長い夜が終わろうとしている。


振り返れば、細い山道には長い列が出来ていた。


子供を抱いた母親達。

肩を支え合う老人達。

疲れ切った顔の男達。


その列の中に、おばあちゃんがいる。


ヒイラギもいる。


皆、生きている。


おばあちゃんがいる。


ヒイラギがいる。


その姿を見た瞬間、張り詰めていた何かが少しだけ緩んだ。


良かった。


本当に。


良かった。


その瞬間だった。


耳鳴りがした。


「……え?」


景色の輪郭が滲んで、慌ててアリスは周囲を見渡す。


ぐるぐる回る視界に、ヒイラギの姿が揺れたように見え、アリスは思わず目を擦った。


違う。


揺れているのはヒイラギじゃない。


世界の方だ。


胸の奥が冷たくなる。


忘れるはずがない。


この感覚を。


あの日と同じだ。


「いや……いやよ!!!」


足元に黒い亀裂が走る。


蜘蛛の巣のように広がったひび割れは、次の瞬間、音もなく崩れた。


地面が消える。


黒い穴が口を開く。


アリスは反射的に手を伸ばした。


おばあちゃんが振り返る。


ヒイラギが何かを叫ぶ。


聞こえない。


音が遠い。


東の空が、さらに白くなる。


夜が終わる。


アリスだけが落ちていく。


落ちる。


落ちる。


――世界が、異物を次の時代へ排出する――

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