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縄文03 帰りたい


【アリス】 帰りたい


送ったあと、アリスは唇を噛んだ。


本当は――ママ。


そう打ちたかった。


お腹が小さく鳴る。

今日はまだ夕飯を食べていない。


ふいに思い出したのは、家のカレーだった。

ちょっと甘くて、肉の入っていないママのヘルシーカレー。

物足りないっていつも文句を言っていたのに、今は無性に食べたかった。


涙がにじむ。


草むらで、何かが湿った草を踏んだ。


ガサッ。


アリスの肩がびくっと跳ねる。


アリスは、父のスマホを制服の内側へ押し込んだ。


ガサ……ッ。


誰か、いる。

それとも、動物?


冷たい風が吹き抜け、白い息がこぼれた。

指先はもう感覚がない。


胸の奥でスマホが短く震えた。


ブルッ。


また。


ブルッ。


レンだ。きっと。


でも、画面を見る余裕なんてなかった。


ガサ……ッ。


また音がした。


しかも近い。


アリスはゆっくり振り向く。


最初は、火が見えただけだった。


赤く揺れる、小さな火。


その向こうに、人がいた。


いや、人影だった。


暗闇に輪郭は溶けているのに、目だけが火を映してこちらを見ている。


ひとりじゃない。

十人――いや、もっといる。

後ろにも。

火の向こうにも。


低い声で何か話していた。

知らない言葉だった。

日本語じゃない。


アリスは反対方向へ駆け出した。


「やだっ……!」


草をかき分ける。


無理だ。

あんなの、町内の人でもない。

近所の人でも、そもそも、私の知っている普通の人じゃない!


枝が制服に引っかかる。

暗くて、前なんかほとんど見えない。


息が苦しい。


喉が痛い。


後ろから、草を踏みしめる音が追ってくる。


涙で視界が滲む。


怖い。


怖い怖い怖い。


足元の根に引っかかった。


「あっ――!」


肩から地面へ叩きつけられる。


冷たい泥が制服へ染みこんだ。

痛みで息が詰まる。


すぐに起き上がろうとした腕を、誰かが掴んだ。


「っ!!」


男だった。


火の明かりに照らされた顔は影になってよく見えない。

ただ、毛皮をまとった身体と、煙と獣が混ざったような臭いだけが、生々しく近かった。


アリスは泣きながら暴れた。


「やだ!! 離して!! いやっ!!」


当然、通じない。


男たちは困ったように早口で何か話している。


火が近づく。


「いやああっ!!」


熱い。

アリスは反射的に顔を背けた。


けれど、火はそこで止まった。

代わりに、小さな影が前へ出てくる。


女の子だった。


アリスと同じくらいの年に見える。長い髪。

首には牙の飾り。


火の明かりの中で、じっとアリスを見ている。

その視線が、震える肩や白い息、冷え切った指先へゆっくり落ちていった。


女の子は少し迷うような顔をして、自分の肩にかけていた毛皮を外した。


そして、そっとアリスへ掛ける。


え?


獣の匂いと、煙の匂い。

ずしりと重い。

でも、暖かかった。


アリスは泣きながら、小さく息を吸う。


女の子が何か短く言った。

意味は分からない。

でも、怒っている声じゃなかった。


胸の奥で、またスマホが震える。


ブルッ。


ブルッ。


男たちがアリスの腕を引いた。


女の子もアリスの横で歩き出す。


連れて行かれる。


暗い森の奥へ。


揺れる火だけが道を照らしていた。


「やだ……」


涙で前が見えない。


帰りたい。


ママ。


お兄ちゃん。


助けて。


ここ、どこなの。


なんでこんなことになるの。


アリスは毛皮を握りしめたまま、声を殺して泣きながら歩いた。

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