弥生15 羊の皮を被った狼
ココ。
ブッサ。
意味はよくわからないし、間違っているかもしれない。
それでも、骨が割れた瞬間に部屋を包んだ空気だけは忘れられなかった。
あの猫目の男の冷酷な笑顔も。
あの笑い方は、おかしい。
何かに取り憑かれたような、凶人の笑み。
あんな怖い顔で笑う人を、アリスは見たことがない。
「ココ」が、あの村である可能性は高い。
そして、良くない事が起きる可能性も高い。
嫌な予感しかしない。
行かないと。
アリスは立ち上がる。
そして、部屋を出ようとして……。
「え」
戸の向こうには、何人もの白い着物姿の女性達がいた。
まるで、この部屋の私を見張っているみたいに。
アリスが驚いて固まっている間に、女性達が立ち塞がる。
そして、何かを優しく話しかけてくるが、当然意味は分からない。
「ごめん! ちょっとだけ!」
身振り手振りで外を指差す。
「ココ、に行きたいの。ここから出たいの。わかって! お願い!」
伝わらない。
女性達は困ったように笑い、そのままアリスを部屋へ押し戻した。
そして、丁寧にスススっと部屋から出ていく女性達。
丁寧にコップに水を入れ、ごゆっくりとでも言いたげに去る女性達にアリスは叫ぶ。
「もうっ! なんなのよ!」
拳をプルプル震わせて、アリスはスマホを取り出す。
【アリス】外に出れない! むっきー!
【レン】おい
【レン】やめておいたほうがいいと言っているだろ
【レン】危ないことはするな
【アリス】知らん!
アリスは鼻息も荒く、今度は別の戸口へ向かった。
物を運ぶ為の通路なのか、そこは暗く荷物が沢山置かれている。
そこを抜けると、白い布が揺れる長い廊下があり、今度は部屋からの脱出を成功させる。
そして、外への通路を探し、出来る限り人の少ない場所を探して歩き回る。
だがここは想像していたより遥かに広かった。
どこを見ても似たような柱と廊下が続き、行き交うのは白い服の女性達ばかりで、上手く隠れる場所もない。
5分も立たぬ内に、案の定、見つかる。
「ちょっと、離して! こら!」
心配そうな顔をした女性達に囲まれ、何かを言われながら元の部屋へ連れ戻された。
「またぁー!!!」
アリスは敷物へ倒れ込んだ。
言葉も通じない。場所も分からない。出口も分からない。
どうすれば、ココ村に帰れるのだろう。
そもそも、この神殿を出ても、ココ村まで、どう歩いてきたかも分からないのだけれど。
「くそ〜! クソクソクソ〜!!!」
アリスが鼻息を荒くしていると、スマホが震えた。
【レン】やめておけ
【レン】そこはマジでヤバイかもしれない
【アリス】知らん! 戻りたい!
【レン】お前一人で何が出来る
【アリス】お兄ちゃん、ひどっ!
悔しかった。
レンの言葉が正しい。
でも、ココへ戻りたい。
何一つ出来ないのが、本当に悔しい。
【レン】村へ戻ってどうすんだ?
【レン】何が起きるかわからないから、今はじっとしていろ
【アリス】いや! いく!
【レン】なぜ?
アリスは指を止める。
なぜって、そんなの上手く分からない。
ただ、苦しいからだ。
おばあちゃん達にはお世話になったし、本当に何か起きたら、きっと後悔する気がした。
それに。
アリスは喉をコクリと鳴らす。
ココ村に何かあったとしたら、それは……。
【アリス】私のせいだから
レンのメッセージが数秒とまる。
【レン】なぜ、お前は我慢できない?
え?
【レン】現時点でお前は、そこでは巫女扱いで地位は高いと思う
【レン】きっとそこにいれば安全なんだ
【レン】妙な事しないでくれ
レンの自分を心配する気持ちがつたわってくる。
でも。
巫女扱いってなんなんだ。
そのせいで、私はわけの分からない占いをしてしまったのだ。
そのせいで、もし、ココ村が……。
嫌な想像をして、アリスは激しく首を振る。
とにかく、我慢できないって言われても、こんなん、我慢できるわけがない!
天井を睨みながら唇を噛んでいると、不意に昔の記憶が浮かんだ。
父だ。
『"我慢"はしすぎると心が壊れるからなぁ』
父は、ちょっと変わっていた。
アリスは小さい頃から、我儘で、家族を良く困らせた。
そうすると、父は困った顔で、わけの分からない話ばかりして、余計に私を怒らせた。
欲しい物を買ってもらえなくて泣いた時。
友達と喧嘩した時。
思い通りにならなくて拗ねた時。
『わかる。俺も欲しいと思ったら我慢出来ないタイプなんだよ』
激しく猛る私に、ふにゃふにゃと太い眉を下げて笑う父。
ウザい。
何もわかっていない。
自分が悪いとわかっていても、我慢出来ないのだ。
だから、あっちにいけといつも思っていた。
『わかる、わかる、わかるよ、アリス』
そして、何も分かっていない父に、決まって同じ事を言われた。
――羊の皮を被った狼になれ。
意味不明だった。
羊の皮を被った狼?
父は、私を狼扱いしている。
そう思って睨みつけてやった事もあった、爪で腕をガリっとやってやった事も。
父はいつも笑っていた。
「狼のままじゃダメなんだ」
欲しいものがあるからといって。
最初から牙を剥けば、相手だって警戒する。
だからまずは羊になれ。
――羊の皮を被って笑ってごらん?
相手と同じ顔で笑って、同じ方向を向いて、群れの中へ入ってしまえ。
やりたい事は、その後でいい。
大抵、上手くいく。
――アリスの笑顔は世界一だ
ウザい父の言葉。
言っている事は分かったけれど、それは父のような正面からぶつかれない弱い人のやり方だと思っていた。
当時は、ただ、そう思った。
けれど今だけは、少し分かる気がした。
ここでは、あたしは、何もできない弱者だ。
暴れても何しても、何も変わらないのだ。
「……あ」
アリスはゆっくり身体を起こした。
なんで逃げようとしていたんだろう。
ココ。
ブッサ。
あの言葉を言っていたのは誰だった?
猫目の男だ。
槍を持った男達だ。
みんな楽しそうに笑っていた。
だったら。
アリスも笑えばいい。
部屋を見渡す。
「それに、私は、巫女様よ」
【アリス】お兄ちゃん、巫女って偉いの?
【レン】多分な
【レン】おい、変なことするなよ?
それだけ分かれば十分だった。
隅には、まだ片付けられていない骨が無数に置かれていた。
そして、この部屋は奇妙な骨や石や土器が飾られていた。
アリスは壁に近寄り、その中の首飾りを手に取る。
白く磨かれた骨は不思議なほど軽く、表面は滑らかだった。
それを首へ掛けてみる。
嫌な感じだ。
でも、あのママに似たあの人もこんな感じで……。
その瞬間、背後で女性達がざわめいた。
振り返ると、戸の向こう側で、何人かが目を丸くしている。
それだけじゃない。
一人の女性がゆっくり頭を下げた。
続いてもう一人。
気付けば部屋にいた女性達全員が頭を垂れている。
え、なんで?
……あ。
本当に巫女扱いされてる?
アリスは首から下がる骨へ触れる。
そして少しだけ笑った。
相手が勝手に巫女だと思いたいなら、乗っかってやる!
アリスは後ろでポニテにしていたゴムを解き、手首に巻いて頭を振る。
少しでも、あの壇上の神様みたいな女性に、見た目だけでも近づけるために。
さらにアリスは、壁際に立て掛けられていた槍を持ち上げた。
青い刃の部分が想像より重い。
スマホが震えて、アリスはチラリと画面を見る。
【レン】おい、返事を返せ? 何してる?
【レン】マジでやめとけよ!?
お兄ちゃん、エスパーみたい。
アリスは笑みを浮かべる。
槍は、ずしりと重く、まともに振り回せる気がしない。
でも、羊になる為に、必要なのだ。
槍を肩へ担ぎ、何事もないような顔で部屋を出る。
今度は誰も止めなかった。
女性達は道を開け、頭を下げる。
アリスは内心でガッツポーズを決めながら、廊下を進むと、また女性達がいた。
腰と胸だけに白い布を巻いていて、身軽そうな女性達はアリスに向かって手を伸ばして集まり始める。
ちょっと待ちなさいとでもいうように。
アリスはそれを素早く察知して距離を離す。
ヤバイ。
アリスは思わず叫ぶ。
「あっちにいけ! シッ!」
とっさに出た言葉は、効果てきめんだった。
おばあちゃんが子ども達を追い払う時に使っていた言葉だ。
アリスをもう止める者は誰もいなかった。




