弥生06 ねずみ返し
目を覚ましたアリスは、真っ先にスマホを掴んだ。
昨夜気づいたことが、まだ頭から離れなかった。
ママには届かなかったライメッセが、レンにだけは未送信にならなかった。試しにほかの相手にも送ってみたけれど、結果は同じだった。
レンだけが違う。
本当に届いているのかは分からない。既読はつかないし、返事もない。
でも、もし届いているなら。
アリスは過去のやり取りを開いた。
【レン】もっと情報くれ
【レン】わけがわからない。何もできない
その文字を見つめて、小さく息を吸う。
そうだ。
ただ助けてって送るだけじゃダメだ。それだけじゃ、お兄ちゃんは何もできない。
きっと助けようとしてくれる。でも、何も分からなければ動けない。
だったら、アタシがちゃんと伝えなきゃ。
ここがどこなのか、未だに全然分からない。でも、お兄ちゃんなら何か分かるかもしれない。ここがどんな場所で、自分がどんなところにいるのか、少しでも多く伝えよう。
アリスはライメッセを開いた。
【アリス】知らない村
【アリス】みんな言葉が通じない
【アリス】泥だらけ
【アリス】田んぼみたいなのある
【アリス】変なおばあちゃんが助けてくれてる
打ち終わって、自分で画面を見て顔をしかめた。
「……雑すぎ」
でも、何も送らないよりはいい。
祈るみたいな気持ちで送信する。
当然のように既読はつかない。
それでも、ただ泣いて待っていた昨日までとは少し違った。
……見てよ、お兄ちゃん。
ちゃんと情報送ったんだから。
そう思えただけで、胸の奥に小さく力が戻ってくる。
……とはいえ、お腹は正直だった。
ぐぅぅ、と遠慮なく鳴る。
昨日ちゃんと食べたはずなのに、身体が全然満足していない。
あの硬いごはん。ところどころ殻が残っていて、噛めばほんのり甘かった。でも、それだけだ。
身体が求めているものが違う。
肉。
しょっぱいもの。
甘いもの。
買い物についていくと買ってもらっていたコンビニのパンとか、お菓子とか、ポテチとか。あの時は別にありがたみなんて感じていなかったのに、今はどうでもいいはずのカラフルな袋まで恋しくなる。
「……贅沢すぎだったかも、アタシ」
ぼやきながら外へ出ると、すぐ子どもたちが集まってきた。
昨日のケンケンパの丸が、まだ地面に残っている。
ひとりがぴょんと跳んで、
「パ!」
と得意げに叫んだ。
別の子も真似する。
どうやら、すっかりお気に入りになったらしい。
思わず笑ってしまう。
そんなふうに見ていた時だった。
泥の中で、小さな子が働いていた父親らしい男の脚にしがみついた。男は笑いながら、その子を軽々と肩へ持ち上げる。
そのすぐそばでは、母親らしい女が呆れた顔をしながら、それでもちゃんと笑っていた。
その光景に、アリスの笑顔がすっと消えた。
……いいな。
ママに会いたい。
家族みんなに……。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
思わず村を見回す。
知らない人たち。
知らない言葉。
知らない景色。
「……ここ、一体どこなのよ」
すると、子どもたちが一斉に反応した。
「ココ!」
「ココ!」
「ココ!」
「え?」
ひとりが地面をぺちぺち叩く。
「ココ!」
別の子が家の壁を叩く。
「ココ!」
みんなが楽しそうに同じ言葉を繰り返していた。
「……ここ?」
聞き返すと、子どもたちは嬉しそうに何度も頷く。
でも、なんだか変だった。
アタシの言った“ここ”に反応しただけじゃない。もっと、ちゃんと意味のある言葉みたいな響きだった。
「……ココ?」
優しい響きだった。
意味は分からないのに、妙に耳に残る。
ぼんやりしていると、おばあちゃんに呼ばれた。
今日は広場じゃなく、少し村の奥のほうへ向かっているらしい。
そこで、アリスは妙な建物を見つけた。
ほかの家と違う。
地面に建っていない。
太い柱の上に持ち上げられていて、途中には丸い板みたいなものがついている。
「……なにあれ」
気になって近づこうとした瞬間だった。
そばに立っていた男が、一気に距離を詰めてきた。
「きゃっ!」
肩を強く突かれて、そのまま地面へ転がる。
痛い。
男は何か怒鳴っていた。
言葉は分からない。でも、近づくなと言っているのは分かった。
そこへヒイラギが飛び込んできた。
アリスの前へ立ち、険しい顔で何かをまくしたてている。
庇ってくれているらしい。
ちょっと驚いた。
おばあちゃんもやってきて、男をきつく叱りつける。
男はあからさまに怯んで後ずさった。
……このおばあちゃん、村でどんな立場なの?
ヒイラギが心配そうにアリスの顔を覗き込んでくる。
アリスが小さく笑ってみせると、ほっとしたように笑い返してきた。
……もしかして、ボディーガードのつもり?
おばあちゃんは、あの高い建物の中を指した。
そして懐から袋を取り出し、その中から実をつまんでアリスの手に乗せる。
昨日から食べているやつだ。
「マイ」
そう言って、今度は建物を指さす。
お米と、この建物?
アリスは柱の上にある建物を見上げた。
ほかの家とは明らかに違う。
ほかはみんな、地面にへばりつくみたいに建っていた。
土を塗り固めた壁に、草を重ねた屋根。湿った空気まで染み込んでいそうな家ばかりだ。
なのに、あれだけ違う。
太い木の柱で持ち上げられていて、地面から浮いている。壁も木だ。
まるで、“大事なもの”だけ別にしているみたいだった。
その時、視線が途中の丸い板で止まった。
ふっと記憶が引っかかる。
歴史の授業。
教科書で見たことがある。
変な名前だった。
確か――
「……ネズミ返し?」
思わず口に出た。
高い場所に食べ物を置いて、ネズミが登れないようにするやつ。
たしか、そんな説明だった。
視線が、ゆっくり建物全体をなぞる。
「あ……高床式……」
そこで名前が引っかかった。
なんだっけ。
教科書で見た。
確か――
「高床式倉庫……?」
教科書の中のものだった。
写真で見たことがあるだけのもの。
それが、今、目の前にある。
でも。
なんで、教科書で見たものが、ここにあるの?
アリスは建物を見上げたまま、しばらく動けなかった。




