弥生03 ヒイラギ
翌朝。
外へ出た瞬間、アリスは顔をしかめた。
少しは慣れたかと思ったのに、この村はやっぱり朝からジメジメがすごい。
ため息を吐いて数歩歩いたアリスはまた顔をしかめた。家の前のぬかるみにうっかり足を踏み入れ、ずぶっと靴が沈んだのだ。
「うわ、最悪……」
ぬるりとまとわりつく泥が気持ち悪い。足を動かすたび、ぐちゅっと嫌な音がする。
その様子を見て、近くにいた子どもたちが遠慮なく笑った。
むっとしたアリスの背後から、おばあちゃんの鋭い声が飛んだ。
「シィッ!」
子どもたちはぱっと散っていった。
……と思ったら、今度はアリスの腕が掴まれる。
「え、ちょっ……」
おばあちゃんにぐいぐい引っ張られるままアリスは村の中を移動することになった。
ようやく村の中をちゃんと見ることになったけれど、やっぱりあちこち湿っぽい。
沼地の上に家を立てたみたいな村。
それがアリスの印象だった。
おばあちゃんはそんな家の隙間を足を取られることなくスイスイ進む。
思っていたより広い村だ。
土を盛って固めたような背の低い家がいくつも並び、壁はところどころひび割れている。屋根には乾いた草が厚く重ねられ、いくつかの家からは細い煙が立ちのぼっていた。
家と家の間には踏み固められた土の道があり、泥だらけの裸足の子どもたちが駆け回っている。
村の中央の開けた場所には、大勢の女たちが集まっていた。
若い人も、おばあちゃんみたいな年寄りもいる。
草を編んだり、木の実を選り分けたり、何かを削ったり。広場には物が雑多に置かれ、みんなせわしなく手を動かしていた。
じっとしている人がいない。
おばあちゃんは、その輪の中へアリスを押し込んだ。
「え?」
思わず周りを見回す。
子どもたちも、ただ遊んでいるわけじゃなかった。小さな手で物を運んだり、大人のそばで手伝ったりしている。
どうやらここでは、ぼんやりしているだけ、という選択肢はないらしい。
言葉は分からない。
でも。
食べるなら働く。
そんな空気だけは、なんとなく伝わってきた。
目の前に置かれたのは、細長い穂のついた植物だった。
「えっと……」
アリスが固まっていると、おばあちゃんが穂をこすって見せる。
ぱらぱら、と殻が落ちた。
「……あ」
きっと、お米だ。
おばあちゃんから食べさせてもらっている、あのごはん。
泥だらけの畑を思い出す。
クワみたいなもので土をならし、水の中で作業していた人たち。
あれ、やっぱり田んぼだったんだ。
アリスの知っている田んぼより、ずっと荒っぽい。畑を無理やり水びたしにしたみたいな田んぼだけど。
おばあちゃんが穂を持ち上げて言った。
「……マイ」
「コメ?」
違ったらしい。
近くの子どもたちが笑った。
「マーイ! マーイ!」
「うるさい」
むっとしながら、アリスも真似してみる。
「……マイ」
今度は笑われなかった。
ちょっと悔しい。
マイマイと騒ぐ子どもたちを無視して、おばあちゃんは手を動かす。
アリスも真似してそれを始めた。
作業は地味だった。
穂をこすって、殻を落として、またこする。
単純なのに妙に疲れる。十分もしないうちに、指先が少し痛いし、腰もだるくなる。
気づけば、胃のあたりがきゅっと縮むような感覚があった。
……お腹すいた。疲れたぁ。
その時だった。
横からいきなり腕を掴まれた。
「ちょっ!?」
あの男だった。
無言のまま、ぐいっとアリスをどかそうとする。
その向こうでは、女たちが稲穂の束や土の器をせわしなく運んでいた。
……え。
アタシ、邪魔?
おばあちゃんの怒声が飛んだ。
男がぴたりと止まる。
さらに何かまくしたてられる男。
怒鳴られても、反論する様子もなく黙っていた。
え、何、あの顔。
さっきまで厳しい頑固者みたいな顔してたのに、みるみる悪いことして怒られた小学生みたいな顔になっていく。
文句はありそうなのに言い返せなくて、泣きそうで、へにょっとしている。
……なにその顔。
アリスは吹き出しそうになって、慌てて俯いた。
さっきまで怖かったくせに。
男はやがて、こちらをちらりとも見ないで、おばあちゃんから逃げるように女たちの作業を手伝い始めた。
改めて見れば、みんなちゃんと役割があるみたいだった。
稲穂をほぐす人。
器を運ぶ人。
バラバラに見えて、ちゃんと回っている。
……邪魔しないようにしよ。
アリスは黙って稲穂をこすり続けた。
あっという間に、太陽が真上に移動していた。
アリスのお腹はもう限界だった。
女たちが立ち上がり、木の器が配られる。
ご飯だ。
アリスは作業を止めて大きく息をつく。
おばあちゃんがアリスへ器を差し出した、その時。
「え……」
なぜか一度、そっとアリスの手に触れた。
それから、小さく何か呟く。
祈るみたいに目を閉じて。
「……もう、またぁ?」
おばあちゃんは、アリスを神様でも崇めるように頭を下げて、握る手に力を込めてくる。
……やっぱり、こういうところはちょっと怖い。
ようやく謎のおばあちゃん儀式が終わり、アリスは湯気が立っているお椀に口をつける。
箸はないが、もうそのあたりアリスは慣れた。
お米は思っていたより硬かった。
ところどころ、殻みたいなものが口に当たる。
香りもいつも食べているお米とは全然違う。
青っぽいような、土っぽいような、よく分からない匂い。
正直、すごく美味しいわけじゃない。
でも。
あったかかった。
空っぽのお腹に、その温かさがじわっと落ちていく。
さっきまで自分がやっていた作業を思い出す。
殻を落として。
実を分けて。
泥の田んぼみたいな場所で育てて。
そうして、これになる。
「……まずくはない、かな」
食べ終わって、ふと顔を上げる。
少し離れたところで、あの男がまだしょんぼりしていた。
……おいおい、いつまで落ち込んでんの。
アリスがじっと見ていると、おばあちゃんがその視線に気づいたらしい。
何か言いながら、男を指差す。
それから森の方を指差す。
倒れる真似。そして、アリスと男を交互に指さす。
「……え」
もう一度。森。倒れる真似。アリス。男。
少し考えて、アリスは目を見開いた。
「……倒れてたアタシを、この村まで連れてきたのって、この人?」
おばあちゃんが何度も頷く。
男は気まずそうに目を逸らした。
あの時の事は殆ど覚えていない。
けれど、あの時こっちへ近づいてきた大きな影だけは、なんとなく覚えている。
アリスはしばらくその横顔を見て、それから小さく頭を下げた。
伝わったかは分からない。
でも男は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
……感じ悪いやつだと思ってたのに。
でも、悪いやつでもないらしい。
「……よし」
アリスは男を見る。
「あんたのあだ名、ヒイラギね」
当然、意味は通じない。
なんとなく、どんぐりに似ている気がしたからだ。
午後。
そのまま、おばあちゃんの横で稲穂をこする作業を続けた。
子どもたちが泥を飛ばして走り回っていた。
ヒイラギは相変わらず無愛想。
言葉も通じない。
帰れる気配もない。
なのに、朝よりちょっと息がしやすかった。




