弥生02 弥生時代へまっさかさま
最後に見えたのは、どんぐりの手だった。
アリスを掴もうとしてくれていた、真っ黒に焼けた腕。
もう少しで届きそうだったのに、届かない。その腕はやがて、水へ落とした絵みたいに輪郭を滲ませ、赤い火も、土の色も、夜の黒もまとめてほどけていった。
世界そのものが裏返るみたいだった。
耳の奥で、空気が裂けるような音が響く。雷に似ていたけれど、もっと近くて、もっと気持ち悪い。
そのまま、アリスは落ちた。
次の瞬間、身体が何かへ叩きつけられ、冷たい泥が全身を包み込む。水を含んだ土が制服へ入り込み、靴ごと足を飲み込んでいった。
息を吸おうとして泥臭い空気が喉へ入り、激しく咳き込む。
全身が泥に沈んだまま首を巡らせると、視界の向こうに人がいた。
ひとりやふたりじゃない。気づけばぐるりと囲まれていて、逆光で顔は見えない。けれど、みんなが怯えていることだけは分かった。
知らない言葉が飛び交い、震えるような声まで混ざっている。苦しくて助けを求めるように手を伸ばすと、何人かが悲鳴を上げて尻もちをついた。
人の輪を押しのけて、こちらへ近づいてくる影があった。
大きな影だった。
誰かが、アリスの手を掴む。
そこで、意識が途切れた。
◇
目を覚ました南条アリスは、ぼんやり天井を見上げた。
木を組み、その隙間へ土を押し込んだだけみたいな粗い天井だった。ところどころ細い光が差し込み、隙間風が容赦なく入り込んでくる。
鼻の奥には、土と煙の匂いがこびりついていた。
「……もうやだ」
布をぎゅっと握りしめ、小さくつぶやく。
ここへ来て、たぶん三日くらいの朝。
森の中じゃない。家の近所でもない。知らない人たちに囲まれて、またしても、なぜか言葉は通じない。
もう意味が分からない。
日本としか思えないのに、知っている日本じゃない。
最初の一日は、何が起きたのかほとんど理解できなかった。
あの時、何が起きたんだろう。
どんぐりが、ウサギもどきを捕まえて、みんなが笑っていた。
そして、あの気持ち悪い音がして、世界がぐにゃりと歪んだ。
次に気づいた時には、もうここだった。
どんぐりの顔を思い出す。
あの女の子の顔も。
でも、この場所はあそこじゃない。
もう二度とどんぐりたちに会えないような気がして、胸の奥が苦しくなった。
最初はスマホを何度も触った。
地図を開き、現在地を表示しようとする。
けれど、くるくる回る印だけが表示され、やがて「位置情報を取得できません」の文字が出て終わる。
何度やっても同じだった。
検索も出来ないし、ニュースも見られない。天気予報すら開かない。
ネットそのものが死んでいるみたいだ。
当然のように圏外で、ライメッセの既読もつかない。
レンからも。ママからも。誰からも何も来ていなかった。
どこにいるのか分からない。
助けも呼べない。
家へ帰る方法も分からない。
自分だけが、世界から切り離されてしまったみたいだ。
待っていれば誰か助けに来てくれるかもしれない。
そんな期待も、最初はあった。
でも、一日経っても、二日経っても、何も変わらなかった。
気づけば、アリスはほとんど泣いて時間を過ごしていた。
ママに会いたくて、家に帰りたくて、ただ、それだけを思って泣いた。
「……え?」
頬をつんつんされて、アリスは顔をしかめた。
顔を上げると、目の前には、しわだらけのおばあちゃんがいた。
何か話しかけているけれど、当然ひとつも分からない。それでも優しそうに微笑み、シッシッと急かすような声を出している。
たぶん、起きろってことだ。
このおばあちゃんだけは、ずっと優しかった。
アリスが泣いて寝込んでいた時も、水を飲ませてくれて、温かい粥みたいなものを少しずつ食べさせてくれて、泣いていても追い出したりしなかった。
なのに時々、妙にアリスへ向かって手を合わせる。
拝むみたいに。
……それ、ほんとやめてほしい。
「……おはよ」
当然、通じない。
まだ拝んでいるおばあちゃんを無視して、体を起こし自分の服を見る。
制服じゃなかった。毛皮でもない。粗い布を巻きつけただけみたいな服だ。
渡された時は、本気で嫌だった。チクチクするし、ゴワゴワするし、ぜんぜん可愛くない。
でも制服はもう、泥と汗でひどいことになっていて、とても着られる状態じゃなかった。
長い黒髪を慣れた手つきでまとめ、いつものポニーテールを作る。そのついでに胸元へそっと手を入れ、父のスマホがちゃんとある事を確認する。
アリスは短く息を吐き、何でもないふりをして、そっとそこから手を離す。
泣きそうになるのをぐっとこらえて立ち上がると、おばあちゃんが嬉しげにくしゃりと微笑んだ。
外へ出ると、朝の空気が肌へ刺さった。
前の場所とは違う寒さだった。もっと湿っていて、じわじわ服の中へ入り込んでくる。
思わず肩をすくめた、その時だった。
ぺちゃっ、と背中へ何かが当たる。
「ひゃっ!?」
振り向くと、泥だった。
少し離れたところで、子どもたちがアリスより驚いた顔で固まっていた。
「ちょっと!!」
アリスの反応に、子どもたちは慌てて走り出す。
たぶん、わざとじゃない。泥遊びをしていたところへ、たまたまアリスが出てきてしまっただけだ。
子どもたちは裸足で土の上を走り回り、細い棒を振り回して、意味もなく叫んでいる。泥をぶつけた責任を押しつけ合いながら、半分はそのまま遊んでいるようにも見えた。
……うるさい。
低い声が飛び、子どもたちがぴたりと止まる。
視線の先にいたのは、あの男だった。
おばあちゃんの息子か、孫か、そのへんだろう。家の中でもよく見る、無愛想で、いつも怒っているみたいな顔をしている若い男だ。
男はアリスをちらりと見て、子どもたちへ短く何か言う。
子どもたちはさっと顔をこわばらせ、遠くへ逃げていった。
「……こわっ」
アリスの言葉に、男が振り向く。
意味なんて通じていないはずなのに、男は少しだけむっとした顔でアリスを一瞥し、腕を組んだ。
「な、なによ?」
男はそれには答えず、大きく息を吐いて、アリスから離れていく。
……変な人。
その背中を見送っていると、胸の奥に小さな寂しさが残った。
言葉が分かってくれれば、少しは気持ちが楽になるのに。
アリスは背中についた泥を払い、周囲を見渡した。
まったく、それにしても泥が多い村だった。
大人たちは朝から泥の中で働いている。
水の張った場所で腰をかがめて何かを植え、木でできた道具で土をならし、水を引き込み、ぬかるみの中を何度も行き来していた。
田んぼ……っぽい?
でも、アリスの知っている田園風景とは違う。
もっと荒っぽくて、きれいに整えられた場所じゃない。自然をむりやり相手にしている感じだった。
さらに向こうでは、ひとりの男が大声で怒鳴っている。
若い男たちが慌てて動き、少し遅れた人は頭を下げていた。その横で、細い目をした別の男が何もしないまま笑っている。
アリスは眉をひそめた。
前の場所も変なところだった。
みんな毛皮を着て、土と煙の匂いがしていた。
でも、あっちはもっと自由だった気がする。
ここは、なんか違う。
人も多い。
髪の毛もちゃんと整ってるし、服だってちゃんと着ている。
なのに、落ち着かない。
同じ知らない場所なのに、前よりちょっと息がしづらい気がした。




