弥生01 奇妙な事実
渋谷から実家までの道が、やけに長く感じた。
南条レンは、赤信号で止まるたびスマホを確認していた。
画面には、妹から届いたメッセージが残っている。
【アリス】たすけて
【アリス】へんなところいる
【アリス】森
【アリス】家帰りたい
そこから先は、途切れたままだ。
既読はつかない。
電話をかけても、呼び出し音も電子音声も流れない。ただ、何もない場所へ向かって発信しているみたいな静寂が続いて、やがて通話が切れる。
助手席へ放り出したスマホが震えた気がして、また手を伸ばす。
違う。
何も来ていない。
そんなことを、もう何度繰り返したか分からなかった。
頭に浮かぶのは、ろくでもない想像ばかりだ。
誘拐か。
事故か。
事件か。
いや、ただの悪ふざけかもしれない。
そう思おうとして、すぐ無理だと分かった。
あいつは、こういう嘘をつくタイプじゃない。
レンはコンビニへ車を滑り込ませた。
ハザードをつけたまま、実家へ電話をかける。
それも、妙だった。
母はだいたい家にいるはずなのに、固定電話にもスマホにもずっと出なかったのだ。
なのにこちらは、ちゃんと呼び出し音が鳴る。
ただ出ないだけ。
そのことが、かえって気味悪かった。
何度目かのコールのあと、ようやく母が出る。
『もしもしー?』
レンは一瞬、言葉を失った。
いつもの、のんきな声だった。
アリスが助けを求めているかもしれないのに、その日常の温度差に、感情が一気にはち切れそうになる。
「アリスは!? 今どこ!?」
一拍おいて、母が素で聞き返した。
『え?』
「え?じゃなくて! アリス!」
『え? ど、どうしたの? レン?』
「だから、アリスは……!」
『部屋にいると思うけど……』
レンの思考が止まった。
「……は?」
『なに急に』
理由も整理できないまま、レンはまくしたてる。
「変なメッセ来てんだよ! 助けてとか、森にいるとか!」
『変なメッセ?』
本気で意味が分かっていない声だった。
背中に、じっとり汗がにじむ。
「代わって」
『えー、今、私お風呂出たばっかりで――』
「いいから、代わって!!」
自分でも驚くくらい大きな声だった。
電話の向こうで、母が少し黙る。
『……なんなのよ、もう』
その時、遠くから聞き慣れた声がした。
『なにー?』
アリスだった。
レンは言葉に詰まる。
「……アリス?」
どたどたと足音が近づき、今度はすぐそばで声がした。
『お兄ちゃん? どうしたの?』
ちゃんと、妹の声だった。
「ア、アリス? お前……」
なのに、レンの頭は真っ白になる。
メッセージのことを説明しようとしても、どこから話せばいいのか分からない。
電話の向こうのアリスは、不思議そうに少し黙ってから、あっさり言った。
『私、ちょっと今手ぇ離せないから、じゃあね』
通話が切れた。
レンはスマホを見たまま固まる。
なんだ、今の。
アリスが家にいる?
じゃあ、このメッセージはなんだ?
もう安心していいのか?
そう考えようとした時、胸の奥へ小さな違和感が刺さった。
なにか、変だ。
何が違うのかは分からない。
でも、引っかかる。
レンはスマホを助手席へ放り出し、サイドブレーキを下ろした。
一瞬だけ、自分のアパートへ戻るか迷う。
けれど、この違和感を確かめないままじゃ眠れないと、すぐに実家へハンドルを切った。
明日の仕事なんて、もうどうでもよかった。
アクセルを踏み込み、見慣れた道を飛ばす。
実家へ着いた頃には、すっかり夜になっていた。
玄関の灯りがついている。
その光が、妙に遠い。
レンはほとんど蹴るようにドアを開けた。
「母さん!!」
キッチンから声が返る。
「え? レン? どうしたの急に」
何も知らない顔でこちらを見る母に、一瞬だけ全身の力が抜けた。
でも、次の瞬間には叫んでいた。
「アリスは!?」
「え? だから部屋にいるわよ? どうしたの? 一体?」
廊下の奥で、ぱたぱたと足音がした。
現れたのは、アリスだった。
少し大きめのTシャツに短パン。
家でだらける時の、いつもの格好だ。
長い黒髪は高い位置で結んだポニーテールで、走ってきたのか毛先が少し跳ねている。
きりっとした眉。
大きな目。
見慣れた顔だった。
なのに、レンは安心できなかった。
いつもなら、その顔には感情がうるさいくらい浮かんでいる。
不機嫌な顔。
文句を言いたそうな顔。
調子に乗ってる顔。
そういう騒がしさが、この妹らしさだった。
でも今は、妙に静かだった。
整った顔立ちが、そのまま綺麗に見えてしまうくらいに。
レンはスマホを見る。
【アリス】家帰りたい
目の前の妹を見る。
意味が分からなかった。
「……お前」
アリスが、じっとレンを見る。
その視線に、いつもの落ち着きのなさがない。
「どうしたの?」
声はアリスだった。
顔もアリスだった。
でも、何かが違う。
レンは無理やり笑おうとした。
「いや、その……」
言葉が続かない。
誘拐じゃなかった。
事件でもなかった。
そう思えば安心するはずなのに、背筋の奥に冷たいものが残ったままだった。
アリスは、小さく首をかしげる。
「お兄ちゃん?」
その呼び方すら、初めて聞いたみたいに感じた。




