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第7話 夜の姉妹

 夜。布団を並べて敷いた。


 チヨの部屋はルカの部屋の隣だが、ルカは週に何度か「一緒に寝たい」と言って、チヨの布団に潜り込んでくる。十五歳にしては子供っぽいが、チヨは断ったことがない。


 ルカは隣で寝返りを打っている。まだ眠れないらしい。今日の写真の練習の興奮が残っているのだろう。天井に、外の月明かりが障子を通してぼんやり映っている。


「姉ちゃん、起きてる?」


「起きてるよ」


「今日、写生大会で描いた絵、先生に褒められた」


「よかったね」


「でも、友達に『ルカちゃんは色の使い方が変わってる』って言われた。変わってる、って褒め言葉かな」


「褒め言葉よ。他の人と同じ色を使ったら、同じ絵にしかならない」


「……姉ちゃんもそう思う?」


「思うよ。ルカの色は、ルカにしか見えない色だから」


 ルカがしばらく黙った。布団の中で、何かを考えている気配がする。


「ねえ、姉ちゃん」


「ん?」


「お母さんの声、覚えてる?」


 不意の質問だった。チヨは天井を見つめたまま、少し間を置いた。


「……覚えてるよ。低くて、落ち着いた声。でも怒ると早口になるの」


「私、だんだん忘れてきてる。お母さんの声がどんなだったか、思い出そうとすると——ぼやけるの。写真は見られるから顔は分かるんだけど、声は……」


「写真には声は写らないからね」


「姉ちゃんの魂写機なら、声も写せるの?」


「……想いは写せる。声そのものは無理だけど、声に込められた感情は、写真に残ることがある」


 ルカがこちらを向いた気配がした。暗い部屋の中で、金色の瞳がかすかに光っている。


「お父さんは? お父さんのこと、覚えてる?」


「覚えてるよ。大きな手。レンズを磨くときだけ、すごく繊細になる手。普段は不器用なのに」


「あはは。お父さん、料理ぜんぜんダメだったよね」


「目玉焼きも焦がしてた。でもカメラの修理は誰よりも上手だった」


 二人で小さく笑った。笑い声が暗い部屋に溶けて、すぐに沈黙が戻った。


「姉ちゃん」


「ん?」


「姉ちゃんは怖いものある?」


「怖いもの?」


「うん。お化けとか? 写し世の存在は怖くないの?」


 チヨは天井を見つめた。月の光が障子の格子模様を映している。


「お化けは怖くないよ。写し世の存在も。だって、あの人たちは元々人間だったんだもの。想いが残っているだけ。想いは怖くない」


「じゃあ何が怖い?」


「——忘れること」


「忘れること?」


「大切な人のことを忘れるのが、一番怖い。名前を呼べなくなること。顔が思い出せなくなること。一緒にいた時間を、なかったことにされること。——ルカが言ったでしょ。お母さんの声がぼやけるって。あれが、一番怖い」


 暗い部屋の中で、沈黙が落ちた。遠くで蛙が鳴いている。田んぼの蛙。五月の夜の音。


「私は絶対忘れないよ」


「何を?」


「姉ちゃんのこと。姉ちゃんの味噌汁の味も、写真を撮るときの顔も、帯の結び方も。全部覚えてる。絶対忘れない」


 チヨの目が熱くなった。暗くてよかった。涙を見せなくて済む。


「……ありがとう、ルカ」


「だから姉ちゃんも忘れないでね。私のこと」


「忘れるわけないよ」


「約束」


 暗闇の中で、ルカの小指が伸びてきた。チヨは小指を絡めた。小さくて温かい指。子供の頃から変わらない、指切りの形。


「約束」


「破ったら針千本だからね」


「千本も飲んだら死んじゃうよ」


「だから破っちゃダメなの」


 ルカが笑った。チヨも笑った。暗い部屋で、二人の笑い声が重なった。


 やがてルカの寝息が聞こえ始めた。チヨは小指を解かず、妹の手を握ったまま、目を閉じた。


 階段の三段目が、かすかに軋んだ。チクワが降りていく音。猫は夜の方が活動的だ。


 ——絶対忘れない。


 ルカがそう言った。千本の針を賭けて、約束してくれた。


 その約束を、私はこの子から奪わなければならないかもしれない。


 チヨは暗い天井を見つめた。月の光が格子模様を作っている。その光の中に、母の顔が浮かんだ気がした。


 涙が一筋、こめかみを伝って枕に落ちた。隣でルカの寝息が、規則正しく続いている。


 チヨはそっと起き上がった。枕元に置いてあった小型のカメラを取った。父の一眼レフ。ルカに渡す用に調整したものだが、今夜だけ借りる。


 月の光が障子を通して部屋に差し込んでいる。柔らかい光。ルカの寝顔が、青白く照らされている。長い睫毛の影が頬に落ちている。口が少し開いていて、小さな寝息が漏れている。


 チヨはカメラを構えた。シャッター音でルカを起こさないように——いや、今夜は撮れない。シャッター音が鳴る。でも——。


 撮った。


 カシャリ。小さな音。


 ルカが——起きなかった。今夜は深く眠っている。指切りをしたまま、安心して眠っている。


 チヨはファインダーの中のルカを見つめた。月光の中の寝顔。平和で、無防備で、美しい顔。この顔を——覚えておこう。何があっても。


 この一枚は、チヨだけの写真になる。誰にも見せない。チヨだけが知っている、ルカの寝顔。

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