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第6話 光を読みなさい

 午後。ルカが学校から帰ってきた。


「姉ちゃん、写真教えて!」


 鞄を放り出して、裏庭に駆け出していく。チヨは苦笑しながら、小型の一眼レフを二台持って後を追った。一台はチヨ用。もう一台は、父が使っていたものをルカ用に調整したもの。


「今日は何を撮りたい?」


「花! 庭の花!」


 裏庭に、チヨが世話をしている花壇がある。母から引き継いだもの。紫陽花、鈴蘭、躑躅。季節ごとに違う花が咲く。今は躑躅が盛りを過ぎ、紫陽花の蕾が膨らみ始めている。


「まず、光を見なさい」


「光?」


「花を見る前に、光を見る。光がどこから来て、どこに落ちているか。影がどこにあるか。それが分かれば、花の一番きれいな角度が分かる」


 ルカは目を細めて庭を見渡した。午後の光が西から差し込み、紫陽花の葉に斜めに当たっている。葉の表面が光り、裏側に深い影ができている。


「西から……光が来てる」


「そう。今の時間は斜光。影が長くなる。被写体に立体感が出る」


「じゃあ、この角度から?」


 ルカがカメラを構えた。チヨが後ろから覗き込む。


「もう少し下から。花の目線まで腰を落として」


 ルカがしゃがむ。ファインダーの中で、紫陽花の蕾が空を背景に浮かび上がる。


「いいよ。そのまま——息を止めて、シャッターを切って」


 カシャリ。


「撮れた!」


「見せて」


 フィルムカメラだから、すぐには確認できない。でもチヨには分かった。ルカの構図は正しかった。光と影の境界を、ちゃんと捉えている。


「いい写真になると思う」


「ほんと?」


「ほんと。でもね、もう一枚撮ってみて。今度は別の角度から」


「別の角度?」


「さっきは下から見上げた。今度は横から。花と同じ高さで、水平に」


 ルカが体の向きを変え、紫陽花の蕾と目を合わせるように構えた。


「このとき、背景に何が入るか意識して。花だけじゃなく、花の後ろにある世界も写真の一部よ」


 ルカがファインダーを覗いたまま、小さく頷いた。


 カシャリ。


「どう?」


「さっきの方が好きかも」


「それでいい。二枚撮って、自分で選べるのが大事。一枚目は直感。二枚目は考えた一枚。どちらが正しいかは、現像してみないと分からない」


「写真って、答えがないんだね」


「ないよ。だから面白い。同じものを撮っても、撮る人が変われば違う写真になる。百人が同じ花を撮ったら、百枚の違う写真ができる」


「姉ちゃんの写真と、私の写真は、どう違うの?」


 チヨは少し考えた。


「私の写真は——光を探す写真。暗い場所でも、必ずどこかに光がある。それを見つけて、写す。ルカの写真は——まだ分からない。でも、きっと私とは違うものになる。それが楽しみ」


 ルカは嬉しそうに笑った。その笑顔を、チヨは目に焼きつけた。西日の中で笑うルカの顔。金色の瞳が夕陽を受けて、琥珀のように光っている。


「ほんと。でもね、ルカ」


 チヨはルカの隣にしゃがんで、同じ高さで庭を見た。


「光を読むのは技術。でも、何を撮りたいかは、心で決めるの。技術は教えられるけど、心は教えられない。ルカが何を美しいと思うか。何を残したいと思うか。それは、ルカにしか分からない」


 ルカはしばらく黙って、庭を見つめていた。


「……私は、姉ちゃんを撮りたい」


「え?」


「姉ちゃんが花の写真を撮ってるとき、すごくきれいなの。真剣な顔で、でもちょっと笑ってて。あの顔を撮りたい」


 チヨは不意を突かれた。妹にそんなふうに見られていたとは思わなかった。


「……じゃあ、撮ってみなさい」


 チヨは立ち上がり、花壇の前で魂写機の手入れをするふりをした。レンズを布で拭く。蛇腹の動きを確認する。普段の仕事の動作。


 背後で、カシャリ。


 振り返ると、ルカがカメラを下ろして笑っていた。


「撮れた」


「どんな顔だった?」


「きれいだった。言った通りの顔」


 夕方になった。西日が庭を赤く染めている。チヨはルカを縁側に座らせ、帯の結び方を教えた。


「この帯はね、母さんのもの。結び方が独特なの」


「難しい……」


「左手で支えて、右手でたすきを——そう。引きすぎないように。布が呼吸できるくらいの力加減で」


 ルカの手をとって、一緒に結ぶ。ルカの指が帯の生地をなぞる。何度も失敗して、何度もやり直す。


「こう?」


「もうちょっと緩く。——そう、それでいい」


「やった!」


 居間のテレビから、天気予報の機械的な音声が流れていた。「明日の霧梁県地方は、晴れのち曇り。夕方から霧が出るでしょう」。合成音声の無機質なリズム。——この音を、チヨはあと何日聞けるのだろう。


 ルカが嬉しそうに立ち上がった。帯が少し曲がっているが、形にはなっている。チヨはその姿を見て、母を思い出した。母もこうやって、チヨに帯を教えた。そしてチヨが、ルカに教えている。


 繋がっていく。手から手へ。


「ルカ。この結び方、覚えておいてね」


「覚えた。……たぶん」


「体が覚えるまで、何度でも練習するの。体が覚えたら、忘れない。頭は忘れても、体は覚えてる」


 ——体が覚えていることは、消せない。


 チヨは自分の言葉に、少しだけ驚いた。なぜ今、そんなことを言ったのだろう。予感だったのかもしれない。いつか、ルカの頭から記憶が消える日が来ることへの。


 でも——帯の結び方は残る。左手で支えて、右手でたすきを。布が呼吸できるくらいの力加減で。ルカの指はまだ不器用だが、何度も練習すれば——やがて体が覚える。


 エプロンの紐を結ぶとき。風呂敷を包むとき。靴紐を結ぶとき。——あらゆる「結ぶ」動作の中に、帯の記憶が宿る。ルカは気づかないだろう。なぜ自分がこの結び方をするのか。誰に教わったのか。でも——指だけが覚えている。


 それでいい。指が覚えていれば——チヨは、ルカの指の中に、生き続けている。

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