第5話 味噌汁の約束
五月の日々は、穏やかに流れていた。
朝はいつも同じ。チヨが先に起きて、台所に立つ。
まず、水を汲む。井戸水ではなく水道だが、この村の水道は山の湧水を引いている。蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく出る。鍋に張って、昆布を一枚沈める。昆布が水を吸って、ゆっくり広がっていく。この十五分が出汁の命だ。写祓の湿板と同じ——待つ時間が、仕上がりを決める。
昆布を引き上げ、鰹節を入れる。ふわりと立ちのぼる出汁の香り。目を閉じると、母の台所が蘇る。母も同じ手順だった。同じ鍋、同じ昆布、同じ鰹節。橋爪家の味噌汁は、三代変わっていない。
豆腐をさいの目に切る。包丁の刃が豆腐に入るとき、すっと抵抗なく沈む感触が好きだった。ネギを刻む。小口切り。トントントンと、まな板を叩くリズムが台所に響く。
味噌を溶く。赤味噌。村の麹屋の吉田さんが作っている。「うちの味噌は、三年寝かせとる」が口癖だ。少し甘めに溶く。ルカの好みに合わせて。ルカは辛い味噌汁が苦手だ。チヨ自身は辛い方が好きだが、朝はいつもルカの舌に合わせる。
卵焼きも作る。卵を三つ、砂糖を気持ち多めに、醤油をほんの数滴。泡立てすぎないように混ぜる。フライパンに油を引いて温め、卵液を薄く流す。端が固まり始めたら、箸で手前に巻く。もう一度流す、巻く、流す、巻く。三回。母に教わった手順。同じフライパン。木の柄がすり減って、チヨの手の形に馴染んでいる。
ルカが階段を降りてくる。三段目が鳴る。チクワがその後をついてくる。
「おはよう」
「おはよう」
毎朝同じ言葉。でも毎朝、少しだけ声の調子が違う。今朝のルカは機嫌がいい。美術の授業がある日は、いつも声が弾んでいる。
「今日ね、写生大会なの。校庭の桜を描くんだ」
「もう散ってるんじゃない?」
「葉桜を描くの。緑の桜もきれいだよ」
「そうね。緑は難しい色だけど」
「どうして?」
「緑には百種類の緑がある。目の前の緑がどの緑か、見極めないといけない。浅い緑、深い緑、黄色がかった緑、青みがかった緑……写真も同じよ。光の読み方で、同じ緑がまったく違う色になる」
ルカが箸を止めて、チヨを見た。金色の瞳が、真剣な光を帯びている。
「姉ちゃん。今の、メモしていい?」
「どうぞ」
ルカはスケッチブックの端に、小さな字で書き込んだ。「緑には百種類。光で変わる」。その真剣な横顔を見て、チヨは胸が温かくなった。
この子は、ちゃんと育っている。
両親が亡くなったのは三年前。交通事故だった。チヨは十九歳で、ルカは十二歳。二人きりになった。写真館の経営も、家事も、ルカの学費も、すべてチヨが背負った。夜中にルカが泣いているのを聞いて、自分も泣きたいのをこらえて隣に座った。ルカの制服の裾をほどいたり、弁当のおかずを覚えたり、PTAの集まりに出席したり——姉というより、半分母親のような三年間だった。辛くなかったと言えば嘘になる。でも——ルカがいたから、立っていられた。
ルカが味噌汁を一口飲んで、目を閉じた。
「……やっぱり、姉ちゃんの味噌汁が世界一好き」
「大げさね」
「大げさじゃないよ。給食の味噌汁も、友達のお母さんのも、全部違う。姉ちゃんのが一番。豆腐の大きさとか、ネギの切り方とか、味噌の溶き方とか、全部が姉ちゃんの味がする」
「母さんの味よ。私は真似してるだけ」
「ううん。母さんのとも違う。姉ちゃんの味噌汁は、姉ちゃんの味」
チヨは微笑んだ。胸の奥で何かが軋んだが、顔には出さなかった。
「じゃあ、明日も作るね」
「明日も、明後日も、ずっと作って」
「ずっとね」
——ずっと。
その言葉が、喉の奥で少しだけ引っかかった。
夕方。ルカが学校から帰ってきた後、チヨは台所に立ってルカを呼んだ。
「ルカ。今日、味噌汁の作り方を教えるね」
「知ってるよ? 毎朝見てるし」
「目をつぶって作れる?」
「……目をつぶって?」
「体で覚えるの。目を閉じて、手の感触だけで作れるようになったら——もう一生忘れない」
ルカは不思議そうな顔をしたが、目を閉じた。チヨがルカの手を取り、一つずつ導いた。鍋に水を入れる。水の量は、手首まで浸かるくらい。昆布を入れる。棚の左から三番目の瓶。十五分待つ。鰹節。味噌の量は手のひらに乗せて重さで量る。少し甘めに。
「甘め? 姉ちゃんは辛いの好きなのに」
「——あなたの好みに合わせてるの。ずっと」
ルカが目を開けた。チヨを見た。
「……もし姉ちゃんがいなくなっても、この手が味を覚えていれば、姉ちゃんはいつでもそばにいるってこと?」
チヨの胸が締まった。この子は——核心を突く。
「——そういうこと」
「じゃあ、全部教えて。卵焼きも。唐辛子も」
「全部教える。体が覚えるまで」
食器を洗いながら、チヨはルカの背中を見た。制服姿で鞄を詰めている。鞄の中にスケッチブックと絵の具箱。教科書はその隙間に押し込んでいる。美術の道具が一番上。優先順位がはっきりしている子だ。
「忘れ物ない?」
「ない。あ、お弁当」
「はい。今日は卵焼きとほうれん草のお浸し」
チヨが差し出した弁当箱を、ルカが受け取る。指が触れた。ルカの指は細くて温かい。チヨの指は薬品で少し荒れていて、いつも冷たい。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
ルカが駆けていく。門を出て、石畳の道を走る。角を曲がる直前に振り返って、手を振った。チヨも手を振り返した。
毎朝のこと。毎朝、ルカは角を曲がる前に振り返る。毎朝、チヨはそれを見届ける。いつから始まったのか覚えていない。たぶん、両親が亡くなった後。ルカが「ちゃんと帰ってくる」という合図を、毎朝送ってくれるようになった。
角を曲がって、ルカの姿が消えた。
チヨは玄関に立ったまま、しばらく動かなかった。今日も、無事に学校に行った。帰ってくる。夕方になれば帰ってくる。当たり前のこと。
でも当たり前のことが、最近、とても眩しく見える。
チクワが足元で鳴いた。チヨは猫を抱き上げ、頬を毛並みに押しつけた。
「ねえチクワ。ルカは大丈夫よね。私がいなくても——」
猫は何も答えなかった。ただ、金色の目でチヨをじっと見つめていた。




