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第4話 帰り道

 翌朝、現像した写真を届けに行った。ルカも一緒だった。


「すごい……」


 源蔵が写真を受け取り、しばらく無言で見つめた。やがて、目尻に涙が光った。


「ハルだ。間違いない。この笑い方……花を持ってるときの顔だ」


「花が好きな方だったんですね」


「ええ。毎朝、日が昇る前から庭に出て、花と話をしてました。花も返事をしているみたいだった」


 源蔵は写真を胸に押し当てた。


「ありがとう。橋爪さん。もう一度、会えた」


 帰り道、ルカが隣を歩きながら言った。


「源蔵さん、泣いてたね」


「うん」


「写祓って、すごいね。死んだ人にもう一度会えるんだ」


「会えるわけじゃないよ。想いを写すだけ。でも——写真に残れば、いつでも会える。何度でも」


 ルカは少し考えてから、言った。


「私も、将来チヨ姉ちゃんみたいな夢写師になりたい」


 チヨの胸が痛んだ。鳩尾の奥で、何かがきゅっと縮んだ。


「——なれるよ。ルカなら」


「ほんと?」


「ほんと。でも、まずは学校の宿題を終わらせなさい」


「うっ……」


 ルカが顔をしかめた。チヨは笑った。いつもの朝の、いつものやりとり。


 市場を通り抜ける。朝の市場は活気がある。八百屋の佐々木さんが「チヨちゃん、ルカちゃん、おはよう! 今日のトマト、いいのが入ったよ!」と声をかけてくる。真っ赤なトマトが山盛りに積まれている。チヨはトマトを一つ手に取った。ずっしりと重い。完熟の匂い。夕方のサラダに使おう。


 豆腐屋の山田のおばちゃんが、試食の湯葉を差し出す。


「はい、ルカちゃん。今朝の一番搾り」


 ルカが嬉しそうに頬張る。「おいしい! とろっとしてる」


「チヨちゃんもどうぞ。お母さんも好きだったのよ、うちの湯葉」


「ありがとうございます。二丁、いただけますか」


 母もこの市場を歩いていた。同じ店で、同じものを買っていた。チヨは母の足跡の上を歩いている。


 角を曲がると、時計屋の前で、老人が店先の柱時計を調整していた。桐生さん。村で唯一の時計職人。白い眉の下に、磨いたレンズのような目がある。


「おはよう、桐生さん」


「おう、チヨちゃん。この柱時計、もう百年モノだが、まだ正確だよ。ほれ、秒針を見てごらん」


「きれいに動いてますね」


「時計ってのはな、止まったら終わりだ。動いてる限り、時間は流れる。時間が流れる限り、人は生きてる」


 チヨは微笑んだ。桐生さんの言葉が、懐の中の懐中時計の重さと重なった。


 小学校の前を通りかかると、校庭で子供たちが遊んでいた。低学年の女の子が、ピンクのチョークで地面に何か書いている。「ともだちにやさしくする」。丸い、一生懸命な字。隣の男の子が「なんて書いたの?」と聞いている。女の子が得意そうに「今月のもくひょう!」と答えた。


「かわいい」とルカが言った。


「ね。ああいう字、好き」


「私もあの頃、同じようなこと書いてたかな」


「書いてた。『えをじょうずにかく』って」


「……覚えてるの」


「覚えてるよ。全部」


 写真館に戻ると、チクワが玄関で待っていた。ルカが「ただいまー」と言うと、猫は短く鳴いて、二人の間をすり抜けて家の中に入っていった。


 ルカは制服に着替えて学校へ。チヨは店先の掃除を始めた。


 箒を動かしながら、ふと空を見上げた。霧が晴れて、五月の青空が広がっている。白い雲が、ゆっくりと東に流れていく。


 ——この空を、あと何回見られるだろう。


 その考えを、すぐに振り払った。箒を動かす。床板の継ぎ目に溜まった砂を掃く。今日も依頼が入るかもしれない。暗室の薬品の在庫を確認しなければ。ルカの弁当の材料も買い足さないと。


 普通の一日が、始まっていた。


        *


 その日の午後、写真館に依頼が来た。


 郵便配達員の田中さん。六十七歳。定年退職して二年になるが、一つだけ、ずっと胸につかえていることがあるという。


「三十年前のことなんです」


 田中さんは、チヨの向かいに座って、茶色く変色した封筒を差し出した。


「配達の途中で自転車が転倒して、鞄の中の手紙がいくつか泥水に浸かりまして。ほとんどは乾かして届けたんですが、この一通だけ——宛名が滲んで読めなくなった。届け先が分からないまま、ずっと……」


 チヨは封筒を受け取った。表面は茶色く変色し、宛名のインクは完全に流れている。裏には差出人の名前が——かろうじて読める。「小野寺ハツ」。


「小野寺のおばあちゃん……」


「ええ。去年亡くなられました。生前、ずっと『大事な手紙を出したのに返事が来ない』と嘆いておられた。それがこの手紙だったんじゃないかと」


 田中さんの目が赤くなった。三十年間の罪悪感が、その目に溜まっている。


「中身は見てません。でも——この手紙に込められた想いを、受取人に届けたい。受取人が誰だったのかすら分からんのですが……写祓で、分かりませんか」


 チヨは封筒を手のひらに乗せた。古い紙の感触。三十年分の時間が、この紙に堆積している。


 暗室に入った。魂写機をセットし、封筒を被写体の位置に置いた。ファインダーを覗く。


 三呼吸。


 一度目で、自分を空にする。二度目で、封筒の中の想いに耳を傾ける。三度目で——開く。


 シャッターを切った。


 現像。暗室の赤い灯りの下で、ガラス板を霧露液に浸す。待つ。


 像が浮かんだ。


 若い女性の顔だった。二十代。丸い顔。目が大きくて、少し垂れている。笑っている。——そして、手に何かを持っている。手編みのマフラー。赤い毛糸の。


 マフラーの端に、イニシャルが編み込まれていた。「Y.S.」


 チヨは写真を見つめた。この手紙は——ラブレターだったのだ。小野寺ハツが、誰かに贈ろうとした手編みのマフラーと一緒に送った手紙。「Y.S.」——村の名簿を辿れば、分かるかもしれない。


 翌日、チヨは田中さんと一緒に、村の古い名簿を調べた。「Y.S.」——佐藤義男。ハツさんと同じ年の、元教師。三年前に亡くなっている。


「佐藤先生に……ハツさんが……」


 田中さんは絶句した。二人とも、もういない。手紙は届かなかった。マフラーは編まれたまま、引き出しの中で三十年を過ごした。


 チヨは佐藤義男の墓前に、写真を供えた。ハツさんの笑顔の写真。手編みのマフラーを持った笑顔。——届かなかった想いを、写真が代わりに届ける。


 田中さんが手を合わせた。チヨも手を合わせた。


「……ありがとうございます、橋爪さん。三十年、胸につかえてたものが——」


「想いは、いつ届いても遅くないですよ。佐藤さんは——きっと喜んでます」


 帰り道、チヨは考えた。


 ——私の祈りも、いつか誰かに届くだろうか。


 チヨは歩き出した。


        *


 翌日、もう一つ依頼が来た。


 村の西端に住む梶原さん。五十代の母親。来週、一人娘の美緒が東京に嫁ぐ。


「あの子が生まれ育った家の空気を——写してもらえませんか」


 不思議な依頼だった。人の想いではなく、家の「空気」を写す。


「具体的には、どんな……」


「あの子は五歳のとき、柱に背比べの線を刻みました。玄関の靴箱の上に、あの子が小学校で作った花瓶がある。押入れの中に、高校の制服がしまってある。——あの子がいた証拠が、この家のあちこちに染みついてるんです」


 梶原さんの目が赤くなった。


「東京は遠いです。あの子は帰ってこないかもしれない。帰ってきても——この家は、少しずつ変わっていく。柱の線は塗り替えで消えるかもしれない。花瓶は割れるかもしれない。——でも写真に撮っておけば」


 チヨは頷いた。


 梶原家に行った。魂写機を構えて、家の中を歩いた。玄関、居間、台所、廊下、美緒の部屋。一つずつ、ファインダーを覗く。


 三呼吸。家全体の「空気」を受け止める。


 見えた。ファインダーの中に——家の記憶が浮かんでいた。柱の背比べの線の横に、五歳の美緒が笑っている。台所で母親と一緒に餅をつく十歳の美緒。玄関で制服を着て「行ってきます」と手を振る十五歳の美緒。


 家が覚えている。壁が覚えている。床が覚えている。二十年間、この家に住んだ少女のすべてを。


 シャッターを切った。何枚も。家の隅々に宿った記憶を、一枚ずつ定着させていく。


 現像した写真を梶原さんに渡した。梶原さんは写真を胸に抱いて泣いた。美緒は翌週、東京に旅立つ。写真は——美緒の荷物の中に入れてもらう。実家の空気を、東京まで連れていく。


 帰り道、チヨは思った。


 この仕事が好きだ。人の想いを写すことが。記憶を定着させることが。消えてしまうものを、残すことが。


 ——消えてしまう前に、残す。


 それが夢写師の仕事だ。そして——今、チヨ自身が「消えてしまうもの」になろうとしている。

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