第3話 魂の花
中村家は、写真館から歩いて十分ほどの場所にあった。
古い木造の平屋。庭に花壇があり、季節の花が咲いている。紫陽花が蕾をつけ始め、その手前にカーネーションとスイートピーが風に揺れていた。ハルさんが世話をしていた花壇だ。三年経った今も、源蔵が手入れを続けている。
「ここです」
仏間に通された。畳の部屋。正面に仏壇。線香の匂いと、花の匂い。仏壇の花立てに、白い百合が活けてあった。
「これが——昨夜、替わっていた花です。私が供えたのは菊でした」
チヨは百合に顔を近づけた。花弁の白さが、不自然なほど鮮やかだ。生花だが、生花にしては——温度がない。触れると、指先にかすかな冷たさ。この冷たさは、花の冷たさではない。写し世の温度だ。
「ハルさんが、写し世から持ってきた花です」
「写し世の……花?」
「写し世にも花は咲きます。現世の花が色褪せた鏡像——暖色は暗く、寒色は明るい。この百合が白いのは、写し世では白が最も明るい色だからです」
チヨは仏壇の前に三脚を立て、魂写機をセットした。レンズのキャップを外す。暗箱から湿板を取り出し、カメラの背面にセットする。ここから十五分。
「源蔵さん。ハルさんの写真を、ライトボックスの上に置いてください」
ライトボックスの代わりに、懐中電灯の上に写真を置いた。下から光を当てると、セピア色の写真が透けて、ハルの輪郭がぼんやり浮かぶ。
「写祓を始めます」
チヨは魂写機のファインダーを覗いた。髪が目にかかった。左手で耳の後ろにかけた——いつもの癖だ。ファインダーを覗くたびに、左手で髪を払う。母も同じ癖があった。
逆さまの世界。仏壇、花、線香の煙——そして、ハルの写真。ファインダーの中で、写真のハルの輪郭がかすかに揺れた。
三呼吸。一度目で肺の空気を全部出す。二度目で新しい空気を入れる。三度目で——自分を開く。ルカ編のルカは「自分を閉じる」が、チヨは「開く」。感情を封じるのではなく、すべてを受け入れる。写し世の存在の想いも、依頼主の悲しみも、自分自身の痛みも。全部、開いて受け止める。
瞼を閉じ、再び開けた。
ファインダーの中の景色が変わっていた。仏壇の周囲に、薄い光の靄が漂っている。青白い光。写し世の気配。
「ハルさん」
チヨは声に出した。写祓の基本は、名前を呼ぶこと。名前は存在の錨だ。
「ハルさん。あなたの旦那さんが、会いたがっています」
靄が動いた。ゆっくりと、花立ての周囲に集まっていく。百合の花弁が震えた。風はないのに。
「花を供え続けてくれているんですね。ありがとうございます。でも——もう大丈夫です。源蔵さんは、ちゃんと花の世話をしています。あなたの庭を、守っています」
靄の中に、輪郭が浮かんだ。女性の形。着物。手に花を持っている。
チヨはシャッターに指をかけた。
「——写します」
カシャリ。
閃光が走った。普通のフラッシュではない。魂写機のレンズが写し世の光を集め、一瞬だけ現世に解放する。仏間全体が青白い光に包まれ、すぐに消えた。
源蔵が息を呑んだ。「今の光は——」
「ハルさんの想いが、写真に移りました。もう、夜中に花が替わることはないと思います」
チヨは暗箱から湿板を取り出した。まだ像は見えない。現像しなければ。
「写真館で現像しますので、明日お届けします」
「……ありがとうございます」
源蔵が深く頭を下げた。その肩が震えていた。
*
写真館に戻り、暗室に入った。木戸を閉める。こつんと引っかかる。赤い安全灯をつける。
棚からトングを取った。一番左——自分のトング。持ち手がチヨの指の形にわずかに凹んでいる。何千回も握ったから。真ん中は母のトング。右端は祖母のもの。三代分の指の跡。
湿板を現像バットに浸す。バットは磁器製。縁が少し欠けている——母の代から使い込まれた欠けだ。霧露液が銀塩に触れた瞬間、化学反応が始まる。液面が微かに震える。
待つ。トングで乾板の縁を挟み、液の中で静かに揺する。心臓の鼓動と同じリズムで。母から教わった揺すり方。強すぎると像がぶれる。弱すぎると現像ムラが出る。
暗室の中には、チヨの呼吸と液体のかすかな音しかない。酢酸の甘酸っぱい匂いが鼻をつく。暗室の匂い。この匂いの中で育った。外界の時間がここでは止まっている。赤い光の中で、世界はすべて一枚のガラス板に凝縮されている。
像が浮かび始めた。
最初は霧のように。淡い灰色の影が、ガラスの上にじわりと滲む。仏壇の輪郭。花立て。線香の煙——そして。
ハルが浮かんだ。
若い頃の姿ではなかった。亡くなる直前の、穏やかな老婆の姿。でも手には花を持っている。庭で摘んだ花。笑顔。源蔵に向けた笑顔。
チヨは乾板を霧露液から引き上げ、定着液に移した。定着液——チオ硫酸ナトリウム。銀塩の未反応部分を溶かし、像だけを残す。「定着」。消えかけた想いをここで止める。もう消えない。永遠に。
水で洗い、乾燥棚に立てかけた。棚には昨日までに現像した乾板が七枚並んでいる。七人分の祈り。ガラスの上に、ハルの魂が定着した一枚が完成した。
光に透かして見る。逆光の中で、ハルの笑顔が輝いている。
「——きれいに、撮れました」
チヨは呟いた。写真は記録ではない。祈りだ。撮るたびに、そう思う。




