第2話 写祓の朝
朝食を片づけていると、玄関の引き戸が鳴った。
「ごめんください」
低い声。男性。チヨはエプロンで手を拭きながら店先に出た。
六十代の男性が立っていた。白髪交じりの髪を丁寧に撫でつけ、紺色の作務衣を着ている。手に、古い写真を一枚持っていた。
「橋爪さん。少し、相談が」
村の大工、中村源蔵だった。腕のいい職人で、この写真館の雨漏りも直してくれた人だ。
「どうぞ、お上がりください」
客間に通し、お茶を出した。ルカが学校に行く支度をしている音が、廊下の向こうから聞こえる。
「実は——」
源蔵は写真を差し出した。セピア色の古い一枚。若い女性が微笑んでいる。着物姿。髪を結い上げ、手に野の花を持っている。
「女房のハルです。三年前に亡くなりました」
「存じています。お花が好きな方でしたね」
「ええ。毎朝、庭の花を摘んでは仏壇に供えていた」
源蔵の声が少し震えた。写真を見つめる目が潤んでいる。
「最近——おかしなことがあるんです。夜中に、仏間から音がする。花を活ける音に似ている。水を替える音、茎を切る音。朝になると——仏壇の花が、新しくなっている」
「花が?」
「枯れていたはずの花が、翌朝には瑞々しくなっている。それだけじゃない。花の種類が変わっているんです。私が供えたのとは違う花に」
チヨは写真を手に取った。指先で縁をなぞる。古い印画紙の手触り。わずかに——温かい。写真から微かな熱が伝わってくる。普通の人には感じられない温度。魂の残照。
「源蔵さん。ハルさんは、まだここにいらっしゃいます」
源蔵の目が見開かれた。
「写し世——この世界の裏側に、ハルさんの想いが残っています。花を供えたいという気持ちが、写し世を通じて現世に滲み出しているんです」
「ハルが……まだ」
「怒りや恨みではありません。ただ、花を供え続けたいという——穏やかな祈りです」
源蔵の目から涙がこぼれた。チヨは静かに待った。
「お願いします。ハルの想いを——写してもらえませんか」
「はい。写祓をさせていただきます」
*
ルカが学校に出かけた後、チヨは暗室に入った。
暗室——正確には「くらやみ」と呼ばれる、写真館の奥にある土蔵を改造した現像室。壁は三十センチの厚さがあり、外界の光も音もここには届かない。入口の重い木戸を閉めると、完全な暗闘が訪れる。木戸の枠が少し反っていて、閉めるときにこつんと引っかかる。父の代からそうだ。直そうと思いながら三年。この引っかかりが暗室の入口の合図になっている。
棚には現像用のトングが三本並んでいる。真鍮製。一番左のトングの持ち手が、チヨの指の形にわずかに凹んでいる。何千回も握ったから。真ん中は母のトング——母の指の形に凹んでいる。右端は祖母のもの。三代分の指の跡が、この棚に並んでいる。
赤い安全灯をつけた。壁の八枚の鏡が赤い光を反射し、部屋全体がルビーの内側のように染まる。
棚から魂写機を降ろした。
八×十インチの大判カメラ。橋爪家に代々伝わる異形の眼。黒檀の筐体に真鍮の金具。蛇腹は牛革。レンズは——普通の硝子ではない。紫外線と青の波長を選択的に通す特殊な研磨が施されている。初代の橋爪千代が、影向稲荷の狐神から授かったとされる。
重さ八キロ。チヨの腕で持ち上げると、ずしりとした重量が肩に伝わる。この重さが好きだった。重さの分だけ、写すものに責任が生まれる。
魂写機を作業台に置き、準備を始めた。
まず、乾板の製作。
棚から無垢のガラス板を取り出す。八×十インチ——約二十×二十五センチ。表面の埃を、鹿皮の布で一枚ずつ丁寧に拭く。
次に、影コロジオン。
小さな陶製の壺の蓋を開けると、刺すような有機溶剤の匂いが立ちのぼった。通常のコロジオンにエーテルとアルコールを混ぜたものだが、ここに一つ——橋爪家だけの秘伝がある。影向稲荷の狐火の灰。境内の常夜灯から年に一度だけ採れる、青白い灰を数グラム。これを混ぜることで、コロジオンは「影コロジオン」になる。写し世の存在を、現世の乾板に定着させる力を持つ感光材。
チヨはガラス板を左手に持ち、影コロジオンを右手で流した。
透明な液体がガラスの上に広がっていく。傾けると、虹色の干渉縞が走った。青、紫、緑——光の波長が感光膜の厚みで変わり、刻一刻と色が移ろう。まるでシャボン玉の表面のように。この瞬間がチヨは好きだった。世界のすべての色が、一枚のガラスの上で踊っている。
液が均一に広がったら、すぐに硝酸銀の溶液に浸す。暗い赤色の光の中で、ガラス板を銀浴槽に沈めた。液面が揺れ、銀の粒子がコロジオンの膜に染み込んでいく。三分間。この間に、ガラス板は光に敏感な「湿板」に変わる。
感光してから十五分。それが、このガラス板の命だ。十五分以内に撮影と現像を終えなければ、銀の結晶が乾いて像は二度と結ばない。町の写真屋なら「一時間仕上げ」が最速だ。チヨの写祓は、その四分の一の時間で命をかける。写真は光を待つ芸術だ。けれど夢写師は、光が消えるのを待たせてもらえない。
時間との勝負。だからこそ、準備は完璧にしなければならない。
湿板を暗箱に移す。光が入らないよう、素早く。指先の感覚だけが頼りだ。暗箱の蓋を閉める。カチリ。
次に、霧露液の調合。
現像液——橋爪家ではこれを「霧露液」と呼ぶ。硫酸第一鉄を主剤に、酢酸と水で希釈する。そこに——桜の花びらの粉末を、ひとつまみ。
これも橋爪家の秘伝だ。春に集めた桜の花びらを陰干しにし、石臼で細かく挽いたもの。なぜ桜なのか、チヨにも正確な理由は分からない。ただ、母はこう言っていた。「桜は散っても、匂いは残る。記憶も同じ。消えても、痕跡は残る」
霧露液を小瓶に入れ、蓋をする。定着液も用意する。チオ硫酸ナトリウムの溶液。こちらは普通の写真術と同じだ。
すべてを鞄に詰めた。魂写機、暗箱に入った湿板、霧露液、定着液、三脚、影写りの粉の小袋。総重量は十五キロを超える。
「行ってきます」
チクワが階段の三段目から、じっとチヨを見送っていた。金色の目が、何かを知っているような光を帯びている。




