第1話 写真館の朝
1994年、五月。
霧梁県の山あいに、夕霧村という小さな村がある。その名の通り、夕方になると深い霧に包まれる村だが、朝の霧もまた美しい。白い絹を何枚も重ねたような霧が、棚田と杉林と瓦屋根の集落をやわらかく包んでいる。
ハシヅメ写真館は、その霧の底にあった。
築百年を超える木造二階建て。屋根瓦には苔が生え、軒下に吊るされた風鈴が朝風にかすかに鳴る。硝子の嵌った引き戸の向こうに、現像液と桜の匂いが混ざった空気が溜まっている。写真館というより、記憶の貯蔵庫のような建物だった。
玄関の土間に、長靴が二足並んでいる。大きい方がチヨの、小さい方がルカの。靴箱の上に、梅の枝を挿した花瓶。母が生前に買ったもの。割れかけた磁器を、チヨが金継ぎで直した。金の筋が、花瓶の表面に稲妻のように走っている。壊れたものを直す——それもまた、写真館の仕事の一つだ。
壁には歴代の依頼の写真が飾ってある。祖母が撮った明治の村人たち。母が撮った昭和の風景。そしてチヨが撮った、平成の肖像。三世代分の写真が、この壁に並んでいる。一枚一枚に、撮った人の想いが定着している。写真は——残る。撮った人が消えても。
廊下の突き当たりに、小さな神棚がある。影向稲荷の御神札。毎朝、チヨが水を替える。狐の眷属に守られた写真館。——いや、守っているのは写真館の方かもしれない。三代の夢写師が、この場所で祈りを重ねてきた。祈りの厚みが、壁に染みている。床板の一つ一つに、三代分の足音が堆積している。この写真館は——建物そのものが、一枚の巨大な写真なのかもしれない。百年分の光と影を、この壁が静かに記憶している。
居間から、テレビの音がかすかに聞こえていた。深夜番組の合成音声。天気予報が流れている。「あしたの天気は、夕方から山沿いで紫の靄が——」。ノイズで語尾が途切れた。電波が悪い。この村は山奥にあるから、テレビの映りも音も不安定だ。
橋爪チヨは、暗室で目を覚ました。
正確には、暗室の隣の居間で眠っていた。昨夜、現像の仕上がりが気になって、つい夜更かしをした。気づけば居間の畳の上で、エプロンをつけたまま寝落ちしていた。
二十二歳。肩までの黒髪を後ろで一つに結び、白い小袖の上に藍染めの前掛け。華奢な体つきだが、手だけは職人の手をしている。薬品で少し荒れた指先、現像液の染みがとれない爪の縁。そして——金色の瞳。
朝の光が障子を透かして、畳の上に四角い光を落としている。その光の中で、銀の懐中時計がかすかに光っていた。代々橋爪家の女性が受け継いできた宝物。蓋の裏に繊細な鈴蘭の彫刻。針は規則正しく時を刻み、今は五時十三分を指していた。
チヨは時計を手に取り、しばらく文字盤を見つめた。時計の中で、秒針が淡々と動いている。いつか、この針が止まる日が来るのだろうか。
——考えても仕方ない。今日も仕事がある。
立ち上がり、廊下に出た。古い木の床が足裏に冷たい。板の継ぎ目を一つ一つ踏みながら、階段を上がる。三段目で、いつもの軋みが鳴った。
二階の奥の部屋。襖をそっと開ける。
ルカが眠っていた。
十五歳の妹。布団からはみ出した腕に、昨日の絵の具の跡がまだ残っている。青と黄色。寝相の悪さは子供の頃から変わらない。枕元にスケッチブックが開いたまま置かれていて、途中まで描いた桜の絵が見えた。
チヨはしばらく、妹の寝顔を見ていた。
黒髪が枕の上に広がっている。薄い唇がかすかに開いて、規則正しい寝息が聞こえる。頬の線が母に似てきた。眉の形は父に似ている。そして——閉じた瞼の下にある瞳は、チヨと同じ金色だ。橋爪家の巫女の血が、この子にも流れている。
この寝顔を、いつまでも見ていたかった。毎朝、この子が目を覚ます瞬間を、隣で見ていたかった。瞼が震えて、金色の瞳が光を受けて、寝ぼけた声で「姉ちゃん」と呼ぶ——その一連の動作が、チヨにとって世界で一番美しい光景だった。
何年後も、何十年後も。この子が大人になっても。——でも。
手が伸びた。妹の前髪をそっと払おうとして——止めた。起こしてしまう。
代わりに、部屋の隅に置いてある小型の一眼レフを手に取った。フィルムはまだ残っている。窓から差し込む朝の光が、ルカの寝顔をやわらかく照らしている。この光なら撮れる。
ファインダーを覗いた。ルカの顔がフレームに収まる。朝の光。寝息。前髪に残る絵の具。
——この顔を、覚えていたい。
シャッターに指をかけた。
カシャリ。
フィルムの巻き上げ音が、静かな朝に響いた。ルカの眉がぴくりと動く。
「……んん」
「あ、ごめん。起こしちゃった」
ルカが薄目を開けた。金色の瞳が、朝の光を反射してきらりと光る。
「……姉ちゃん? なに撮ってんの」
「ルカの寝顔。いい光だったから」
「やめてよ、よだれ出てたかもしれないのに」
ルカが慌てて口元を拭う。よだれは出ていなかった。チヨは笑った。
「出てないよ。きれいな顔だった」
「……うそ」
ルカが布団を頭まで被る。耳が赤くなっている。十五歳の妹は、褒められるのが苦手だ。
チヨは窓を開けた。朝の空気が流れ込んでくる。湿った土の匂い、杉の匂い、遠くから聞こえる鶏の声。五月の朝の匂い。
「朝ごはん、作るね。起きておいで」
「……あと五分」
「三分」
「四分」
「三分半。それ以上は負けない」
ルカが布団の中でもぞもぞ動いた。くぐもった声が聞こえる。
「……姉ちゃんの味噌汁がいい」
「はいはい。豆腐とネギね」
チヨは部屋を出て、階段を降りた。三段目がまた軋んだ。台所に立ち、鍋に水を張り、昆布を入れる。
窓の外では、白い霧がゆっくりと動いている。今朝の霧は穏やかだ。紫がかった色はまだない。まだ——大丈夫。
包丁を取り、豆腐をさいの目に切る。ネギを刻む。味噌を溶く。ルカの好きな味付け——少し甘めに。
階段の三段目が鳴った。ルカが降りてくる足音。その前に、もう一つ。軽い足音。
チクワが台所に入ってきた。白と黒のハチワレ猫。金色の目でチヨを見上げ、短く鳴いた。
「おはよう、チクワ」
猫はチヨの足首に額をこすりつけてから、定位置——階段の三段目——に座った。毎朝同じ場所に座る。誰が教えたわけでもないのに。
「チヨ姉ちゃん、おはよう!」
ルカが駆け下りてきた。制服に着替えている。中学三年生。スカートの裾にまだ昨日の絵の具がついている。
「おはよう。顔洗った?」
「洗った」
「耳の後ろに青い絵の具ついてるよ」
「……洗い直してくる」
ルカが洗面所に戻っていく。チヨは味噌汁の火を弱め、卵焼きの準備を始めた。卵を三つ。砂糖を少し多めに。ルカは甘い卵焼きが好きだ。
フライパンに油を引く。卵液を流す。じゅう、と音がして、薄い黄色の膜がフライパンの上に広がっていく。箸で端を持ち上げ、手前に巻く。もう一度卵液を流す。巻く。三回繰り返す。
この手順を、母に教わった。母も祖母に教わった。橋爪家の女たちは、写真と料理を同じ手つきで作る。丁寧に、繰り返し、光を読みながら。
ルカが戻ってきた。耳の後ろの絵の具はとれていた。
「いただきます」
二人で食卓につく。味噌汁、卵焼き、白米、漬物。小さな食卓に、二人分の朝食。
ルカが味噌汁を一口飲んで、目を閉じた。
「……やっぱり、姉ちゃんの味噌汁が世界一好き」
「大げさね」
「大げさじゃないよ。給食の味噌汁も、友達のお母さんのも、全部違う。姉ちゃんのが一番おいしい」
チヨは微笑んだ。胸の奥で何かが軋んだが、顔には出さなかった。
「じゃあ、明日も作るね」
「明日も、明後日も、ずっと作って」
「ずっとね」
——ずっと。
その言葉が、喉の奥で少しだけ引っかかった。
窓の外で、霧が薄くなり始めていた。朝日が山の稜線を越えて、写真館の屋根を照らし始める。普通の朝。普通の味噌汁。普通の姉妹の時間。
この普通が、どれほど貴いか。チヨだけが知っていた。




