第8話 診療所の午後
診療所は、写真館から歩いて五分の場所にあった。
古い木造の建物。看板には「上條医院」の文字。健司の父が開業し、今は健司が一人で切り盛りしている。研修医という肩書だが、この村では唯一の医師だ。
チヨは唐辛子の煮込みを小鍋に入れて、診療所の裏口から入った。勝手口の鍵は、いつも開いている。村の診療所にセキュリティという概念はない。
廊下を歩く。リノリウムの床が少し粘る。消毒液の匂いが染みついている。酢酸とアルコールの混合臭。——写真館の暗室の匂いに似ている。チヨの手も、健司の手も、薬品で荒れている。そこだけ、二人はよく似ていた。
待合室を通り抜ける。壁に、健司の手書きのポスターが貼ってある。「手洗い・うがい」「早寝早起き」。字は几帳面だが、イラストは壊滅的に下手だ。太陽の顔が歪んでいる。チヨは見るたびに笑ってしまう。木のベンチに、座布団が三つ。一番端の座布団だけがへこんでいる。いつも同じおばあちゃんが座るから。
「健司さん、差し入れ」
診察室から返事はなかった。覗くと、健司が机に突っ伏して眠っていた。白衣の背中が規則正しく上下している。机の上にカルテが散らばり、その隅にコーヒーカップが冷めたまま置かれている。カップの縁に、指紋がついている。右手の親指。カルテを書く手だ。ポケットベルが机の端に転がっている。液晶画面に「ヨルゴハンハ?」——ルカからだ。この村にはまだ携帯電話の電波が届かない。ルカは商店の公衆電話から、テレホンカードの残度数を気にしながらポケベルを打つ。
昨夜も遅くまで仕事をしていたのだろう。この村に医師は健司一人。往診から事務まで全部一人でこなしている。チヨが写真館を一人で回しているのと、似ている。
チヨは煮込みを台所に置き、診察室に戻った。棚から薄い毛布を取ってきて、健司の肩にかけた。
健司の寝顔を見た。角張った顎。少し長めの前髪が目にかかっている。眼鏡がずれている。寝ているときは、起きているときより五歳くらい若く見える。子供の頃の面影が残っている。小学校の裏山で、二人で秘密基地を作った頃の。あの頃の健司は泣き虫だった。虫に刺されるとすぐ泣いた。今は注射を打つ側になっている。
——好きだ。
……声に出していた。
自分でも驚いた。口が、勝手に動いた。「好きだ」。二文字。小さな声。でも確かに、声に出してしまった。
健司は——寝ている。聞こえていない。白衣の背中が規則正しく上下している。
チヨは自分の口を手で押さえた。心臓がうるさい。今のを聞かれていたら——。
聞かれていなかった。たぶん。
でも——言ってしまった。声に出してしまった。いつか、この声が届かなくなる前に。この人に——ちゃんと、面と向かって言わなければ。
——でも、今は言えない。これから自分がしようとしていることを考えると、この感情は封じるべきだった。
でも——封じられない。写祓の三呼吸で感情を開くことは得意だが、閉じることは苦手だ。
「……ん」
健司が目を開けた。チヨと目が合った。
「あ、チヨ。いつから——」
「今来たところ。唐辛子の煮込み、持ってきたよ」
健司が体を起こし、眼鏡を直した。チヨの手にある毛布に気づいて、少し赤くなった。
「ありがとう。また寝落ちしてた」
「無理しないで。患者さんに迷惑かけるよ」
「……チヨに心配されると弱い」
二人で台所に移り、煮込みを温めた。チヨが椀に注ぎ、健司に渡す。
「相変わらず辛いな」
「辛い方が目が覚めるでしょ」
「チヨが作る料理は全部辛い。味噌汁以外」
「味噌汁はルカ用だから。甘くしないと食べない」
健司が笑った。煮込みを食べながら、窓の外を見ている。午後の光が診療所の床に四角い影を落としている。
「チヨ」
「なに?」
「手、冷たくないか」
「え?」
健司がチヨの手を取った。不意に。チヨの指先が、健司の大きな掌に包まれた。
「冷たい。いつも冷たいよな、チヨの手」
「……写真をやってると、手が冷えるの。薬品のせい」
「温めてやる」
健司の手は温かかった。大きくて、少し荒れていて、でも温かい。チヨの冷えた指先に、じわりと熱が移ってくる。
チヨは手を引っ込めなかった。引っ込めたくなかった。
「健司さん」
「ん?」
「……言いかけてたこと、あったよね。前に」
健司の手が、わずかに強くなった。
「ああ。あるよ。でも——全部終わってから言う。チヨには大事な仕事があるだろう。それが終わったら——必ず言う」
チヨは頷いた。健司はまだ「全部」の意味を知らない。チヨがこれから何を失うのかも。でも——何かを察してはいるのだろう。医者の勘か、幼馴染の勘か。
「待ってるね」
「待っててくれ」
午後の光が傾き始めていた。二人の影が、床の上で長く伸びている。




