表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/22

第8話 診療所の午後

 診療所は、写真館から歩いて五分の場所にあった。


 古い木造の建物。看板には「上條医院」の文字。健司の父が開業し、今は健司が一人で切り盛りしている。研修医という肩書だが、この村では唯一の医師だ。


 チヨは唐辛子の煮込みを小鍋に入れて、診療所の裏口から入った。勝手口の鍵は、いつも開いている。村の診療所にセキュリティという概念はない。


 廊下を歩く。リノリウムの床が少し粘る。消毒液の匂いが染みついている。酢酸とアルコールの混合臭。——写真館の暗室の匂いに似ている。チヨの手も、健司の手も、薬品で荒れている。そこだけ、二人はよく似ていた。


 待合室を通り抜ける。壁に、健司の手書きのポスターが貼ってある。「手洗い・うがい」「早寝早起き」。字は几帳面だが、イラストは壊滅的に下手だ。太陽の顔が歪んでいる。チヨは見るたびに笑ってしまう。木のベンチに、座布団が三つ。一番端の座布団だけがへこんでいる。いつも同じおばあちゃんが座るから。


「健司さん、差し入れ」


 診察室から返事はなかった。覗くと、健司が机に突っ伏して眠っていた。白衣の背中が規則正しく上下している。机の上にカルテが散らばり、その隅にコーヒーカップが冷めたまま置かれている。カップの縁に、指紋がついている。右手の親指。カルテを書く手だ。ポケットベルが机の端に転がっている。液晶画面に「ヨルゴハンハ?」——ルカからだ。この村にはまだ携帯電話の電波が届かない。ルカは商店の公衆電話から、テレホンカードの残度数を気にしながらポケベルを打つ。


 昨夜も遅くまで仕事をしていたのだろう。この村に医師は健司一人。往診から事務まで全部一人でこなしている。チヨが写真館を一人で回しているのと、似ている。


 チヨは煮込みを台所に置き、診察室に戻った。棚から薄い毛布を取ってきて、健司の肩にかけた。


 健司の寝顔を見た。角張った顎。少し長めの前髪が目にかかっている。眼鏡がずれている。寝ているときは、起きているときより五歳くらい若く見える。子供の頃の面影が残っている。小学校の裏山で、二人で秘密基地を作った頃の。あの頃の健司は泣き虫だった。虫に刺されるとすぐ泣いた。今は注射を打つ側になっている。


 ——好きだ。


 ……声に出していた。


 自分でも驚いた。口が、勝手に動いた。「好きだ」。二文字。小さな声。でも確かに、声に出してしまった。


 健司は——寝ている。聞こえていない。白衣の背中が規則正しく上下している。


 チヨは自分の口を手で押さえた。心臓がうるさい。今のを聞かれていたら——。


 聞かれていなかった。たぶん。


 でも——言ってしまった。声に出してしまった。いつか、この声が届かなくなる前に。この人に——ちゃんと、面と向かって言わなければ。


 ——でも、今は言えない。これから自分がしようとしていることを考えると、この感情は封じるべきだった。


 でも——封じられない。写祓の三呼吸で感情を開くことは得意だが、閉じることは苦手だ。


「……ん」


 健司が目を開けた。チヨと目が合った。


「あ、チヨ。いつから——」


「今来たところ。唐辛子の煮込み、持ってきたよ」


 健司が体を起こし、眼鏡を直した。チヨの手にある毛布に気づいて、少し赤くなった。


「ありがとう。また寝落ちしてた」


「無理しないで。患者さんに迷惑かけるよ」


「……チヨに心配されると弱い」


 二人で台所に移り、煮込みを温めた。チヨが椀に注ぎ、健司に渡す。


「相変わらず辛いな」


「辛い方が目が覚めるでしょ」


「チヨが作る料理は全部辛い。味噌汁以外」


「味噌汁はルカ用だから。甘くしないと食べない」


 健司が笑った。煮込みを食べながら、窓の外を見ている。午後の光が診療所の床に四角い影を落としている。


「チヨ」


「なに?」


「手、冷たくないか」


「え?」


 健司がチヨの手を取った。不意に。チヨの指先が、健司の大きな掌に包まれた。


「冷たい。いつも冷たいよな、チヨの手」


「……写真をやってると、手が冷えるの。薬品のせい」


「温めてやる」


 健司の手は温かかった。大きくて、少し荒れていて、でも温かい。チヨの冷えた指先に、じわりと熱が移ってくる。


 チヨは手を引っ込めなかった。引っ込めたくなかった。


「健司さん」


「ん?」


「……言いかけてたこと、あったよね。前に」


 健司の手が、わずかに強くなった。


「ああ。あるよ。でも——全部終わってから言う。チヨには大事な仕事があるだろう。それが終わったら——必ず言う」


 チヨは頷いた。健司はまだ「全部」の意味を知らない。チヨがこれから何を失うのかも。でも——何かを察してはいるのだろう。医者の勘か、幼馴染の勘か。


「待ってるね」


「待っててくれ」


 午後の光が傾き始めていた。二人の影が、床の上で長く伸びている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ