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第9話 星空の帰り道

 夕方。チヨは診療所を出た。健司が「送る」と言って、一緒に歩いている。


 石畳の道を、二人で歩く。夕霧村の夕暮れは、名前の通り霧が深くなる時間だ。白い霧が足元から立ちのぼり、遠くの山の稜線を隠していく。提灯がまだ灯っていない家もある。この時間の村は、現世と写し世の境界が曖昧になる。


「霧が出てきたね」


「今日は白い霧だ。白い霧の日は、穏やかな夜になる」


「チヨは霧の色で天気が分かるのか」


「村で生まれ育てば、誰でも分かるよ」


「俺は分からないな。医学部にいた間に、忘れたのかも」


「忘れてないよ。体が覚えてる。健司さんも、村の空気を吸えば思い出す」


 石畳の角を曲がると、霧乃川に架かる小さな橋が見えた。欄干に苔がびっしり生えている。


「この橋、まだあるんだな」


「もう百年くらい前の橋らしいよ」


「俺たちがザリガニ釣ったのも、もう十五年前か。チヨが一番たくさん釣ってた」


「だって、健司さんは餌をつけるのが下手だったから」


「ミミズが触れなかったんだ。今は手術できるのにな」


 二人で笑った。橋の上で立ち止まった。欄干に手をかけ、川面を見下ろす。霧乃川の水は、昔と変わらず澄んでいる。水底の小石が月明かりで光っている。


「蛍の季節になったら、また見に来ような」


「蛍?」


「小学校のとき、チヨと二人で蛍を見に行ったろう。暗くて怖がってた俺に、チヨが『蛍の光があるから大丈夫』って」


「あの時——健司さん、私の手を握ったよね。怖いからって」


「……覚えてたのか」


「覚えてるよ。手が震えてた。でも離さなかった」


 健司が橋の欄干を握った。少し間があった。


「今は俺の手、震えないぞ」


「……知ってる」


 川面を霧が撫でている。水と霧の境界が曖昧になり、川が空に溶けていくように見える。幻想的な風景。この村でしか見られない光景。


 写真館の前に着いた。門の向こうに、明かりが灯っている。ルカが中にいるのだろう。


「チヨ」


「ん?」


「上、見てみろ」


 チヨは空を見上げた。霧の切れ間が広がっていた。五月の夜空が、墨色の布に銀の粒を散らしたように広がっている。北斗七星が杉の木の上に架かり、柄杓の柄を辿ると北極星が見えた。


「……きれい」


「この村の星空は、世界一だと思う」


「写真に撮りたいな。でも星は露出が難しいの。長時間露光すると星が流れるし、感度を上げるとノイズが——」


「撮らなくてもいい」


「え?」


「覚えていればいい。今、二人で見てるこの空を。写真に撮れなくても、覚えていれば同じだろう」


 チヨは健司を見た。健司は空を見上げたまま、微笑んでいた。眼鏡のレンズに星が二つ映っている。


 ——覚えていればいい。


 その言葉が、チヨの胸に深く刺さった。覚えていたい。この空も、この人の横顔も、星が眼鏡に映る角度も、全部——。


 でも、覚えていられなくなったら?


 橋の上で、二人はしばらく黙って空を見ていた。星が少しずつ位置を変えている。時間が流れている。五月の夜は短い。


「チヨ」


「ん?」


「俺——言いたいことがある。ずっと——」


 健司の声が途切れた。チヨは横を向いた。健司は欄干を握ったまま、空を見ている。耳が赤い。


「……やっぱり、今じゃない」


「今じゃない?」


「全部終わったら——言う。必ず。約束する」


 全部終わったら。その言葉が、チヨの胸を締めつけた。全部が終わる日が来ることを、健司は知らない。チヨだけが知っている。全部が終わるとき、チヨはもういない。


「なんで——今じゃないの」


「今言ったら、お前に重荷を背負わせる。お前が今、何か大きなことを抱えてるのは——分かる。医者の勘だ。顔色が変わった。目の下の隈が深くなった。食事の量が減ってる。——俺に言えないことを抱えてるんだろう」


 チヨは何も言えなかった。この人は——見ている。チヨの変化を。医者の目で。恋人ではなく、まだ恋人ではなく、幼馴染で医者の目で。


「お前が抱えてるものを、全部片づけた後。そのときに——ちゃんと言う。逃げずに。ごまかさずに」


「——もし、そのときが来なかったら?」


「来る。俺が来させる」


 強い声だった。健司の声がこんなに強いのを、チヨは初めて聞いた。泣き虫だった男の子が、いつの間にこんな声を出すようになったのだろう。


 ——待ってほしい。


 本当は、今すぐ言ってほしい。今夜、この橋の上で。星の下で。でも——今言われたら、チヨは決意が揺らぐ。封印を選べなくなる。この人のそばに残りたくなる。


 だから——。


「……待ってる。全部終わったら、聞かせて」


 嘘だ。待てない。全部が終わるとき、チヨはもういない。でも——この嘘だけは、許してほしかった。


「おかえり〜。遅かったね、二人とも」


 玄関からルカが顔を出した。にやにやしている。


「二人でお散歩? デート?」


「違うよ。送ってもらっただけ」


「健司先生、ごはん食べていきます? 姉ちゃんの唐辛子鍋、まだ残ってますよ」


「いや、今日は遠慮しておく。明日も早いから」


 健司は頭を掻いて、帰っていった。暗い道を歩く背中に、チヨは声をかけた。


「健司さん」


「ん?」


「——ありがとう。今日の星空」


 健司は振り返って、少し笑った。そして手を振って、霧の中に消えていった。


 ルカがチヨの袖を引っ張った。


「姉ちゃん。顔、赤いよ」


「……うるさい」


「言いたいことがあるなら早く言った方がいいよ。健司先生だって、ずっと待ってるんだから」


「ルカ——」


「私は応援してるからね。二人のこと」


 ルカはそう言って、家の中に戻っていった。十五歳の妹は、時々、姉よりも大人びたことを言う。


        *


 翌朝。チヨは思いついた。


「健司さん、今日の午後、写真館に来てくれない?」


 電話で呼んだ。ルカには「写真館の看板用の写真を撮る」と言った。


 午後。三人が写真館の前に立った。チヨが魂写機ではなく父の一眼レフを三脚に固定し、セルフタイマーをセットした。


「ルカ、真ん中に立って。健司さん、左側」


「なんで私が真ん中」


「一番かわいいからよ」


「じゃあ姉ちゃんは?」


「私は右。——はい、笑って」


 チヨはルカと健司の間に走り込んだ。


 カシャリ。


 三人の写真。五月の陽光の下で。ルカが照れくさそうに笑っている。健司が少し硬い表情で——でも目だけは笑っている。チヨが二人の間で、穏やかに微笑んでいる。


 この写真を、チヨは暗室で丁寧に現像した。三枚プリントした。一枚はルカの机の上に。もう一枚は暗室の棚の奥に。三枚目は——フィルムのまま、健司の診療所に隠す予定のフィルムと一緒に。


 ——この一枚が、いつかあの子の唯一の錨になる。

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