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第10話 紫の霧

 翌朝。チヨは窓を開けて、息を止めた。


 霧の色が変わっていた。


 白ではない。薄い紫。うっすらとだが、確かに紫がかっている。空気が重い。肌に触れる湿気の質が、昨日までと違う。昨日まで絹のようだった霧が、今朝は濡れた布のように体に貼りつく。


 チヨだけが分かる。村人には見えない色の変化。夢写師の目——金色の瞳だけが捉える、写し世の気配。


 朝食の支度をしながら、窓の外を何度も見た。霧は薄くなったり濃くなったりしているが、紫の色味は消えない。庭の躑躅の赤が、いつもより暗く見えた。気のせいだろうか。暖色が暗く見えるのは——写し世の法則だ。


 ルカが降りてきた。「おはよう」「おはよう」。いつもの朝。


「姉ちゃん、今日の霧、なんか変じゃない?」


 チヨの手が止まった。ルカにも感じるのか。


「……そう?」


「うん。なんか、重い感じ。息しにくい。あと——風鈴が変な音してる」


 軒下の風鈴。チヨは耳を澄ませた。澄んだ音のはずが、くぐもっている。まるで水の中で鳴っているような音。空気の密度が変わっている証拠だった。


「風邪じゃないの?」


「風邪じゃないよ。なんだろ。嫌な感じ」


 ルカの直感は鋭い。金色の瞳を持つ者の血が、そうさせている。


「大丈夫よ。ただの天気の変わり目」


 嘘をついた。チヨは味噌汁を椀に注ぎながら、自分の嘘の味を噛み締めた。


 ルカを学校に送り出した後、市場に出た。


 空気が違った。石畳を歩く足音が、いつもより響く。音の反響が変わっている。村全体が、薄い膜に覆われているような——。


 八百屋の佐々木さんが、いつもより元気がなかった。


「チヨちゃん、最近ねえ、夢を見なくなったのよ」


「夢を?」


「前は毎晩見てたのに。ここ数日、ぱったり。おじいちゃんなんか、昔の話を忘れ始めてるのよ。戦争の話とか、あんなに何度も聞かされたのに、本人が覚えてないの」


 チヨの背中に冷たいものが走った。記憶の喪失。封印が綻び始めている兆候。


 豆腐屋の前を通ると、山田のおばちゃんが店先で首を傾げていた。


「あれ、今朝の仕込み、したっけ? したような気もするんだけど……」


 桐生さんの時計屋では、修理中の時計が三つ、同じ時刻で止まっていた。


「おかしいなあ。電池を替えたばかりなのに。どれも七時四十二分で止まるんだ」


 公民館の壁にかかっている柱時計も見た。桐生さんが毎週調整している百年モノ。


 針が止まっていた。七時四十二分で。


 チヨは立ち止まり、時計を見上げた。秒針も動いていない。ガラスの向こうで、時間が凍りついている。


 懐中時計を取り出した。こちらはまだ動いている。秒針が規則正しく刻んでいる。だが——時計の裏の金属が、いつもより冷たい。指先から体温を吸い取るような冷たさ。


 霧乃川の橋を渡ったとき、川面を見下ろした。水面に、ありえないものが映っていた。今の風景ではない。別の季節の風景——雪景色。川面だけが冬を映している。瞬きをすると消えた。


 写真館に戻り、暗室に入った。魂写機を棚から降ろし、レンズのキャップを外す。ファインダーを覗いた。窓の向こうの風景を。


 二重に見えた。


 現世の風景の下に、もう一つの風景が透けている。色彩が反転した世界。暖色が暗く、寒色が明るい。写し世が、現世に滲み出している。瓦屋根の赤茶色が黒く沈み、空の青が不自然に明るい。二つの世界が、薄いガラス一枚で隔てられている——そのガラスに、罅が入り始めている。


 ファインダーから目を離した。魂写機をゆっくりと棚に戻す。手が震えていた。


 ファインダーを通さなくても、もう見える。窓の外の景色が、ほんの少しだけ——色が薄い。昨日まで鮮やかだった躑躅の赤が、半段ほど褪せている。まだ誰も気づかない程度。でも、明日はもう少し褪せる。明後日は、もっと。


 封印が弱まっている。


 始まっている。時間がない。あの穏やかな朝が、もう終わろうとしている。

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