第11話 白い狐
その夜、チヨは一人で影向稲荷に登った。
ルカが寝静まった後、懐中時計を握りしめて家を出た。石段を一段ずつ上がる。百二十三段。子供の頃に数えた。チヨとルカと、健司と三人で。
苔むした石段の七十段目あたりから、霧が紫に変わった。ここから上は、もう写し世の領域に近い。空気が粘る。肌に纏わりつく湿気が冷たい。
鳥居をくぐった。朱色が——褪せている。先月来たときは鮮やかだった。今は錆びた赤に近い。
社殿の前に出た。月明かりが境内を照らしている。石灯籠の影が長く伸びている。
そして——社殿の前に、白い影が立っていた。
銀色の髪。白い着物。狐の面を横にずらした顔は、人間とも獣ともつかない。右の目が青く、左の目が金色に光っている。背中に、白く光る九本の尾が揺らめいている。
シロミカゲ。影向稲荷の狐神の片割れ。記憶の守護者。
「来たか、橋爪の末裔」
声は若い男のようでもあり、老いた女のようでもあった。一つの声に、千年分の時間が重なっている。
「封印が弱まっています」
「知っている。お前が来ると分かっていた」
シロミカゲは社殿の前に座った。チヨもその向かいに正座した。石の冷たさが膝に伝わる。
「説明は不要だろう。お前の母——橋爪美咲も、同じ道を歩もうとした」
「母は——途中で」
「ああ。事故で命を落とした。封印を完遂できなかった。だから、綻びが残った」
チヨは拳を膝の上で握った。父と母の死は、交通事故として処理された。だが本当は——封印の準備の旅路で命を落としたのだ。
チヨがそのことを知っているのは、懐中時計のおかげだった。銀の懐中時計——橋爪家の女が代々受け継ぐ宝物。蓋の裏に鈴蘭の彫刻。そして——蓋の内側に、歴代の夢写師が刻んだ微細な文字がある。爪先ほどの文字で、封印の手順、欠片の位置、代償の記録が刻まれている。初代・千代の時代から三百年分の知識が、この時計の内側に蓄積されている。
母・美咲の最後の刻字は途中で途切れていた。「五つ目の欠片は——」で終わっている。事故の日に。針で刻む文字だから、途中で止まった。
チヨは母の未完の記録を、三年かけて読み解いた。暗室の赤い灯りの下で、拡大鏡を使って一文字ずつ。封印の概要。欠片の性質。代償の法則。——そして、最後に消えるという運命。
すべてを知った上で、今夜ここに立っている。
「九日以内に、五つの欠片を集めよ」
「五つ? 母の記録では九つと——」
「あの記録は不完全だ。正確には十の欠片がある。だがお前が集めるのは五つでいい。残りの五つは、いずれ来る者が集める」
いずれ来る者。チヨの脳裏に、ルカの顔が浮かんだ。金色の瞳。あの子もまた、いつか同じ道を——。
「妹は関係ない」
「お前がそう思うなら、そうであれ。だが血は選ぶ」
シロミカゲの声には、千年の重みがあった。慈悲と冷酷が表裏一体になっている。
「欠片を集めるたびに、お前は何かを失う」
「代償」
「そうだ。欠片の性質に引きずられる。光の欠片なら色を失う。水の欠片なら声と音を。風の欠片なら香りと味を。火の欠片なら光と温もりを。心の欠片なら——記憶を」
一つずつ。感覚が消えていく。世界が狭くなっていく。
「得るものもある」シロミカゲは続けた。「色を失えば、暗闇でも見える目を得る。音を失えば、水の記憶を読む力を得る。代償の裏には、必ず贈り物がある。だが——その贈り物も、最後にはすべて消える」
最後には——。
「最後に何が残りますか」
「存在だけが残る。感覚を失い、記憶を失い、それでもお前がお前であるという事実だけが残る。そして、封印の瞬間に、それも消える」
チヨは目を閉じた。風が吹いた。杉の枝が揺れる音。遠くでフクロウが鳴いている。境内の石灯籠の火が、風に揺れている。この音が聞こえるのも、あと何日だろう。この風の冷たさを感じるのも。
「——やります」
「覚悟はあるか」
「覚悟なんて、ありません。怖いです。手が震えてます」
実際に震えていた。膝の上で握った拳が、小刻みに揺れている。
「でも——やらなければ、ルカが危ない。村が壊れる。だから、やります。怖くても」
シロミカゲの表情が変わった。千年の時を生きた存在の目に、何かが揺れた。敬意か。哀れみか。
「お前の母も、同じことを言った」
「……母に、似てますか」
「瓜二つだ」
シロミカゲは立ち上がった。白い尾が月光の中で揺れている。
「明日から始める。最初は光の欠片。朝日が出る前に、村の東の丘に来い」
白い影が、霧の中に消えていった。
チヨは一人、社殿の前に座っていた。月が雲に隠れた。境内が暗くなった。
懐中時計を開いた。針は動いている。まだ、動いている。




