第12話 言えない決意
「チヨ」
声がした。石段の下から。
健司が登ってきた。白衣のまま。走ってきたらしく、息が上がっている。眼鏡が曇っている。
「どうして——」
「チヨの部屋の明かりが消えたのが見えた。こんな時間に稲荷に行くのは、普通じゃない」
健司はチヨの隣に座った。石段の七十段目。二人の肩が触れるか触れないかの距離。
「聞こえてた?」
「……途中から」
チヨは目を伏せた。健司に知られるのは、こんなに早くないはずだった。
「五つの欠片。代償。最後に——消える」
健司の声が震えていた。拳が膝の上で白くなっている。
「チヨ。本気か」
「本気よ」
「他に方法はないのか。俺が——俺にできることは」
「ない。これは橋爪家の巫女の仕事。健司さんにはできない」
「だけど——」
「健司さん」
チヨは健司の目を見た。月明かりの中で、金色の瞳が光っている。
「一つだけ、お願いがあります」
「何でも言ってくれ」
「ルカには——言わないで」
健司の顔が歪んだ。
「あの子に知られたら、止めようとする。一緒に来ようとする。それだけは——ルカを巻き込みたくない」
「でも、チヨ。ルカには知る権利が——」
「知る権利より、生きる権利の方が大事。ルカは生きなきゃいけない。私の後を継いで、夢写師として。この写真館を守って。だから——知らないままでいさせて」
長い沈黙。石段の冷たさが、二人の体に染みていく。遠くで犬が吠えた。村の犬だ。毎晩この時間に吠える。
「……分かった」
健司の声は、掠れていた。
「でも、俺は知ってる。知った上で——そばにいる。最後まで」
「健司さん——」
「それくらいは、許してくれ」
チヨは頷いた。涙が落ちそうになるのを、唇を噛んでこらえた。
二人で石段を降りた。無言で。三十段目あたりで、霧が白に戻った。鳥居をくぐると、村の明かりが見えた。写真館の二階の窓に、ルカの部屋の明かりが灯っていた。
「——ルカ、起きてる」
「宿題でもしてるんだろう」
「あの子、夜更かしの天才だから」
写真館の前で立ち止まった。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
チヨが門に手をかけた。
「チヨ」
振り返った。健司が立っている。眼鏡の曇りは晴れていた。月明かりの中で、真っ直ぐな目がチヨを見ている。
「言いたいこと、全部終わる前に——言うべきだった。ずっと後悔してる」
「……まだ、終わってないよ」
「ああ。まだ終わってない」
健司は踵を返して歩いていった。チヨはその背中を見送った。霧の中に消えるまで。
玄関を開けると、チクワが待っていた。猫は何も言わない。ただ、チヨの足首に額を押しつけてから、階段の三段目に座った。
二階に上がった。ルカの部屋のドアの隙間から、光が漏れている。そっと覗くと、ルカはスケッチブックに向かって何か描いていた。
チヨの横顔だった。
午後に撮った写真ではなく、記憶で描いている。花壇の前に立つチヨ。魂写機を構えるチヨ。ルカの目に映るチヨの姿が、鉛筆の線で紙の上に定着されていく。
チヨはドアの前で、声を殺して泣いた。
明日から、すべてが変わる。この穏やかな日々が、一日ごとに壊れていく。ルカの味噌汁の味が。健司の手の温もりが。この村の色が。全部、私の手からこぼれ落ちていく。
でも——。
この子の絵は残る。この子が描いた私の横顔は、紙の上に残る。
チヨは涙を拭い、自分の部屋に入った。
机の上にノートを開き、ペンを取った。まだ書ける。まだ、言葉がある。今のうちに、書けるだけ書いておこう。感覚を一つずつ失っていけば、いずれ字も書けなくなる。今夜が、一番多くの言葉を残せる夜だ。
——ルカへ。
——この手紙を読んでいるということは、あなたは全部思い出したのね。
——怒っているかもしれない。「なぜ忘れさせたの」って。
——でも聞いて。私はあなたを守りたかった。それだけ。
——写真館のことは心配しないで。あなたなら大丈夫。私より上手くやれるわ。魂写機の手入れは月に一度。影コロジオンの在庫は蔵の奥に。霧露液の調合は、母のノートに書いてある。桜の花びらの粉末は、毎年春に——
ペンが止まった。
書くべきことが多すぎる。技術的なことだけでも、何十ページにもなる。それに、本当に書きたいことは、技術のことじゃない。
——ルカ。あなたの味噌汁の味が、世界で一番好きだった。
——嘘。私が作ってたのに。でも、あなたが「おいしい」って言ってくれるから、おいしくなったの。
——あなたが毎朝、角を曲がる前に手を振ってくれたこと。あれがあったから、私は一日を始められた。
——あなたの金色の瞳が、私と同じ色であること。それが、どれだけ嬉しかったか。
ペンが走った。涙で字が滲んだ。滲んだ文字を指で押さえ、乾くのを待って、また書いた。
窓の外が白み始めた頃、チヨはペンを置いた。ノートの半分が埋まっていた。足りない。全然足りない。二十二年分の愛を、紙の上に収めることなんてできない。
でも——これが、今の私にできる全部だ。
階段の三段目が軋んだ。チクワが上がってくる音。猫がドアの隙間から入ってきて、チヨの膝に乗った。温かい。小さな体の温もりが、膝を通して体中に広がっていく。
「……明日からだよ、チクワ。全部変わる」
猫は答えなかった。ただ、喉を鳴らしていた。その低い振動が、チヨの最後の穏やかな夜を閉じていった。




