表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/22

第12話 言えない決意

「チヨ」


 声がした。石段の下から。


 健司が登ってきた。白衣のまま。走ってきたらしく、息が上がっている。眼鏡が曇っている。


「どうして——」


「チヨの部屋の明かりが消えたのが見えた。こんな時間に稲荷に行くのは、普通じゃない」


 健司はチヨの隣に座った。石段の七十段目。二人の肩が触れるか触れないかの距離。


「聞こえてた?」


「……途中から」


 チヨは目を伏せた。健司に知られるのは、こんなに早くないはずだった。


「五つの欠片。代償。最後に——消える」


 健司の声が震えていた。拳が膝の上で白くなっている。


「チヨ。本気か」


「本気よ」


「他に方法はないのか。俺が——俺にできることは」


「ない。これは橋爪家の巫女の仕事。健司さんにはできない」


「だけど——」


「健司さん」


 チヨは健司の目を見た。月明かりの中で、金色の瞳が光っている。


「一つだけ、お願いがあります」


「何でも言ってくれ」


「ルカには——言わないで」


 健司の顔が歪んだ。


「あの子に知られたら、止めようとする。一緒に来ようとする。それだけは——ルカを巻き込みたくない」


「でも、チヨ。ルカには知る権利が——」


「知る権利より、生きる権利の方が大事。ルカは生きなきゃいけない。私の後を継いで、夢写師として。この写真館を守って。だから——知らないままでいさせて」


 長い沈黙。石段の冷たさが、二人の体に染みていく。遠くで犬が吠えた。村の犬だ。毎晩この時間に吠える。


「……分かった」


 健司の声は、掠れていた。


「でも、俺は知ってる。知った上で——そばにいる。最後まで」


「健司さん——」


「それくらいは、許してくれ」


 チヨは頷いた。涙が落ちそうになるのを、唇を噛んでこらえた。


 二人で石段を降りた。無言で。三十段目あたりで、霧が白に戻った。鳥居をくぐると、村の明かりが見えた。写真館の二階の窓に、ルカの部屋の明かりが灯っていた。


「——ルカ、起きてる」


「宿題でもしてるんだろう」


「あの子、夜更かしの天才だから」


 写真館の前で立ち止まった。


「じゃあ、また明日」


「うん。また明日」


 チヨが門に手をかけた。


「チヨ」


 振り返った。健司が立っている。眼鏡の曇りは晴れていた。月明かりの中で、真っ直ぐな目がチヨを見ている。


「言いたいこと、全部終わる前に——言うべきだった。ずっと後悔してる」


「……まだ、終わってないよ」


「ああ。まだ終わってない」


 健司は踵を返して歩いていった。チヨはその背中を見送った。霧の中に消えるまで。


 玄関を開けると、チクワが待っていた。猫は何も言わない。ただ、チヨの足首に額を押しつけてから、階段の三段目に座った。


 二階に上がった。ルカの部屋のドアの隙間から、光が漏れている。そっと覗くと、ルカはスケッチブックに向かって何か描いていた。


 チヨの横顔だった。


 午後に撮った写真ではなく、記憶で描いている。花壇の前に立つチヨ。魂写機を構えるチヨ。ルカの目に映るチヨの姿が、鉛筆の線で紙の上に定着されていく。


 チヨはドアの前で、声を殺して泣いた。


 明日から、すべてが変わる。この穏やかな日々が、一日ごとに壊れていく。ルカの味噌汁の味が。健司の手の温もりが。この村の色が。全部、私の手からこぼれ落ちていく。


 でも——。


 この子の絵は残る。この子が描いた私の横顔は、紙の上に残る。


 チヨは涙を拭い、自分の部屋に入った。


 机の上にノートを開き、ペンを取った。まだ書ける。まだ、言葉がある。今のうちに、書けるだけ書いておこう。感覚を一つずつ失っていけば、いずれ字も書けなくなる。今夜が、一番多くの言葉を残せる夜だ。


 ——ルカへ。


 ——この手紙を読んでいるということは、あなたは全部思い出したのね。


 ——怒っているかもしれない。「なぜ忘れさせたの」って。


 ——でも聞いて。私はあなたを守りたかった。それだけ。


 ——写真館のことは心配しないで。あなたなら大丈夫。私より上手くやれるわ。魂写機の手入れは月に一度。影コロジオンの在庫は蔵の奥に。霧露液の調合は、母のノートに書いてある。桜の花びらの粉末は、毎年春に——


 ペンが止まった。


 書くべきことが多すぎる。技術的なことだけでも、何十ページにもなる。それに、本当に書きたいことは、技術のことじゃない。


 ——ルカ。あなたの味噌汁の味が、世界で一番好きだった。


 ——嘘。私が作ってたのに。でも、あなたが「おいしい」って言ってくれるから、おいしくなったの。


 ——あなたが毎朝、角を曲がる前に手を振ってくれたこと。あれがあったから、私は一日を始められた。


 ——あなたの金色の瞳が、私と同じ色であること。それが、どれだけ嬉しかったか。


 ペンが走った。涙で字が滲んだ。滲んだ文字を指で押さえ、乾くのを待って、また書いた。


 窓の外が白み始めた頃、チヨはペンを置いた。ノートの半分が埋まっていた。足りない。全然足りない。二十二年分の愛を、紙の上に収めることなんてできない。


 でも——これが、今の私にできる全部だ。


 階段の三段目が軋んだ。チクワが上がってくる音。猫がドアの隙間から入ってきて、チヨの膝に乗った。温かい。小さな体の温もりが、膝を通して体中に広がっていく。


「……明日からだよ、チクワ。全部変わる」


 猫は答えなかった。ただ、喉を鳴らしていた。その低い振動が、チヨの最後の穏やかな夜を閉じていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ