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第13話 最後の色

 1994年5月17日、午前四時。


 チヨは誰よりも早く起きた。


 昨夜、眠れなかった。布団の中で、天井を見つめていた。隣でルカの寝息が規則正しく続いている。この寝息を——あと何回聞けるだろう。


 懐中時計を枕元から取り上げた。蓋を開ける。秒針が淡々と動いている。蓋の内側——歴代の夢写師が刻んだ微細な文字。母の未完の記録。「五つ目の欠片は——」で途切れた文字。


 チヨは時計を胸に当てた。秒針の振動が、心臓の鼓動と重なった。


 ——今日から、始まる。


 今日、光の欠片を手に入れる。代償は色彩。世界から色が消える。この目で色を見るのは、今日が最後だ。


 布団の中で、しばらく天井を見つめた。白い漆喰の天井。朝の光が障子を通して、ほんのり橙色に染めている。橙色。この色の名前を、明日も覚えているだろうか。


 静かに起き上がり、階段を降りた。三段目を踏む。軋み。台所に立ち、いつものように味噌汁を作り始めた。


 だが今朝は——すべてが違って見えた。


 豆腐の白。包丁の銀色。ネギの緑。味噌の赤茶色。一つ一つの色が、宝石のように光っていた。今まで当たり前だったものが、失う前に急に輝き始める。


 窓の外を見た。東の空が白み始めている。朝焼けの色が——赤、橙、紫、青——層をなして空に広がっていく。この村の朝焼けは、世界で一番美しいとチヨは思っている。


 裏庭に出た。鈴蘭が朝露に濡れている。白い花弁に、水滴が一つ。その水滴の中に、朝焼けの赤が映り込んでいる。小さな世界。


 庭の隅の躑躅は、赤い——濃い赤。子供の頃、この赤い花を摘んで蜜を吸った。甘かった。ルカにも教えた。二人で躑躅の蜜を吸いながら、「お花のジュースだね」とルカが言った。あの赤。


 苔の緑。石灯籠に生えた苔は——三十種類ぐらいの緑が混ざっている。濃い緑、薄い緑、黄緑、青緑。雨の日は深い翡翠色になり、晴れの日は若竹色に変わる。この微妙な差は——明日からは見えない。全部、同じ灰色になる。


 空を見上げた。青。五月の朝の青。透明で、深くて、どこまでも続く青。この青を——どんな言葉で記憶すればいいのだろう。「青」という二文字では足りない。でも——写真に撮ることはできる。


 魂写機を持ち出した。この朝焼けを撮りたい。写祓ではない。ただの写真。最後の色を——一枚に残したい。


 ファインダーを覗いた。朝焼けがフレームに収まる。山の稜線、霧の白、空の赤。


 カシャリ。


 撮れた。最後の色の一枚。


「……姉ちゃん?」


 振り返ると、ルカが縁側に立っていた。寝巻き姿。目をこすっている。


「早いね。どうしたの」


「なんか……目が覚めちゃって。姉ちゃんの気配がしたから」


 ルカが隣に来て、朝焼けを見た。


「きれい……」


「ね。今日の朝焼けは特別」


「なんで?」


「——理由はないよ。ただ、きれいだなと思って」


 チヨはルカの横顔を見た。朝焼けの光がルカの顔を照らしている。金色の瞳が、赤い光を受けて琥珀色に変わっている。この色。この色を——覚えていたい。


「ルカ」


「ん?」


「あなたの目、きれいね」


「……急にどうしたの」


「金色の瞳。お母さんと同じ色。私と同じ色」


「姉ちゃんも同じ目してるよ。鏡見なくても分かるでしょ」


 チヨは笑った。ルカの頭を撫でた。黒髪が朝の光で少し茶色く透けている。この色も。この温もりも。


 ——覚えていられるかな。


        *


 午後。チヨはシロミカゲの指示に従い、村の東の丘に登った。


 丘の頂上に、古い祠がある。苔むした石の祠。その中に、小さな光が揺れていた。青白い光。欠片だ。


 シロミカゲが傍らに立っている。白い尾が風に揺れている。


「手を伸ばせ。光の欠片は、自ら選んだ者にしか触れさせない」


 チヨは手を伸ばした。指先が光に触れた瞬間——。


 世界が変わった。


 色が、抜けていく。赤から。朝焼けの赤が灰色に沈んだ。次に橙。空の橙色が消えた。黄色。緑。青。紫。一色ずつ、絵の具を水に溶かすように、世界から色が流れ落ちていく。


 最後に残ったのは、金色だった。ルカの瞳の金色。それが——ゆっくりと、灰色に変わった。


「……あ」


 声が漏れた。世界がモノクロームになった。白と黒と、その間の無限の灰色。空も、木も、土も、すべてが墨絵のようだ。


 手のひらに、青白い結晶が残っていた。光の欠片。冷たくて、でも微かに脈打っている。


「これが……」


「代償は果たされた」シロミカゲの声が聞こえた。白い狐の姿も、今はモノクロだ。「色彩を失い、代わりに暗闇でも見える目を得た。それが光の欠片の贈り物だ」


 チヨは丘の上から村を見下ろした。白と黒の村。屋根も、田んぼも、霧も、すべてが色を失っている。


 ——この色を、覚えていられるかな。


 朝、自分で問いかけた言葉。答えはもう出ていた。色の名前は覚えている。赤、青、緑——言葉としては分かる。でも、どんな色だったかは、もう思い出せない。名前だけが残って、実感が消えている。


 丘を降りながら、チヨは泣かなかった。泣いている暇はない。あと四つ。

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