第14話 灰色の朝
翌朝。モノクロの世界で味噌汁を作った。
冷蔵庫を開ける。中身がすべて灰色に見える。豆腐の白は——白のまま見える。だがネギの緑と、人参の橙と、味噌の赤茶色は、どれも似たような灰色だ。区別がつかない。
昨日までの記憶を頼りに、棚の配置で食材を判断した。左の棚が野菜。右が調味料。手前が卵。奥が——何だったか。手に取ると、冷たくて丸い。林檎だ。ルカの好物。
味噌の濃さが分からない。色で判断していたから。仕方なく、舌で確かめた。少し舐めて——もう少し。もう少し。甘すぎるかもしれない。でも、ルカは甘い方が好きだから、少し多めでいい。
卵焼きは形で判断した。箸で持ち上げて、重さと弾力で焼き加減を確認する。匂いは分かる。焦げた匂いがしなければ大丈夫。
「おはよう」
ルカが降りてきた。チヨはルカの顔を見た。モノクロのルカ。黒い髪、白い肌、灰色の制服。——瞳の色が分からない。金色のはずだ。でも今は、明るい灰色にしか見えない。
「……姉ちゃん。目が」
ルカの箸が止まった。チヨの目を覗き込んでいる。
「私の目、どうかした?」
「いつもの金色じゃない。もっと……薄い。灰色っぽい」
チヨは黙った。自分の目の色が変わったことに、気づいていなかった。色を失った代償が、瞳にも現れている。
「ルカ。実は——」
説明しなければならなかった。全部ではない。でも、一部は。
「色が見えなくなったの」
「え?」
「昨日から。世界が白黒に見える。病気じゃないよ。夢写師の……仕事の一部」
嘘ではない。全部は言えないが、嘘ではない。
ルカの目に涙が浮かんだ。味噌汁の椀を置いて、チヨの手を握った。
「治るの?」
「——分からない」
「怖くないの?」
「怖いよ。でも、大丈夫」
「大丈夫じゃないよ。色が見えないなんて——写真、どうするの。色が分からなかったら——」
「写真は撮れるよ。モノクロ写真だって美しいでしょう。光と影があれば、写真は成立する」
ルカは黙った。反論できない。チヨの言葉は正しい。でも——ルカの表情は納得していなかった。納得はしていないが、姉を責めることもできない。
「ルカ」
チヨはルカの手を握り返した。妹の手は温かい。温度は分かる。感触も分かる。まだ、触れられる。
「私の代わりに色を教えて。今日の空は何色?」
ルカは涙を拭い、窓の外を見た。しばらく黙って、それから言った。
「……青。薄い青。雲がちょっとだけ白くて、山の緑が——濃い緑。あと、庭の躑躅がまだ少しだけ咲いてる。赤。でも昨日より——少し、薄い気がする」
「ありがとう。それで十分よ」
ルカはしばらく窓を見ていた。それから、チヨを見た。目が赤い。でも、もう泣いていなかった。
「毎日教えるね。今日の色。毎朝、教える。姉ちゃんが色を見られなくても、私が姉ちゃんの目になる」
チヨは微笑んだ。
「——お願いね」
ルカが学校に行った後、チヨは暗室に入った。いつもの場所。赤い安全灯をつけた——赤が見えない。灯りがついているのは分かるが、赤い光の中にいるのか白い光の中にいるのか、区別がつかない。
昨日現像した写真を見た。源蔵さんの奥さんの写真。モノクロ——いや、元々モノクロだった。湿板写真に色はない。
ふと気づいた。自分が撮る写真は、最初からモノクロだったのだ。魂写機で撮る湿板写真には色がない。色を失った今のチヨの視界と、写真の中の世界は——同じだ。
なぜだろう。写真を撮り続けてきた二十二年間、写真の中に色がないことを、一度も寂しいと思わなかった。モノクロの中に、すべての色が含まれていると知っていたから。光と影の階調の中に、赤も青も緑も——すべてが潜んでいる。
今の世界も、同じなのかもしれない。色は見えないが、そこにある。見えないだけで、消えたわけではない。
チヨは棚から一枚の乾板を取り出した。今朝、ルカの寝顔を撮った一枚。まだ現像していない。暗箱の中で、銀塩がルカの光を記録している。色のない記録。でも——ルカの金色の瞳の光は、銀の粒子の中に確かに存在している。
*
午後、市場に出た。夕飯の材料を買わなければならない。
八百屋の佐々木さんの前に立った。
「いらっしゃい、チヨちゃん! 今日のトマトは最高だよ!」
トマトが並んでいる。赤い——はずだ。チヨにはすべて灰色に見える。濃い灰色と薄い灰色。どれが完熟で、どれが未熟か、色では判断できない。
以前は一目で分かった。赤が深い方が完熟。黄色味が残っている方は未熟。——今は、手に取るしかない。重さと、表面の硬さで判断する。完熟のトマトは少し柔らかく、ずっしり重い。
一つ目。手に取る。軽い。表面が固い。——未熟だ。戻す。
二つ目。重い。少し柔らかい。——これだ。
「これ、二つください」
「あら、チヨちゃん、いつもは自分で選ぶのに今日は二つだけ? もっと見てごらん、あの端っこのなんか——」
「大丈夫です。今日はこれで」
早く立ち去りたかった。長くいると、ボロが出る。
豆腐屋の山田のおばちゃんの前を通った。
「チヨちゃん! 新しい絹ごし入ったよ、食べてみて」
試食の豆腐を差し出された。味は分かる。まだ味覚はある。豆の甘みが口の中に広がった。——でも、豆腐が白いのか黄色いのか、分からない。
「おいしいです。二丁ください」
帰り道、ルカが学校から帰ってきた。スーパーの袋を覗き込む。
「あ、トマト。今日のトマト、赤くていいね」
チヨの心臓が跳ねた。赤い。ルカがそう言うなら、赤いのだろう。当たりを引いた。
「——一段と赤いでしょ。佐々木さんが自信作だって」
「へー。今日はサラダ?」
「うん。冷やしトマトにしよう」
嘘はついていない。けれどルカの前で、普通の姉を演じ続けるのが、日に日に難しくなっていた。
*
——健司の独白——
深夜。診療所のデスクで、チヨの目を診た結果を見返している。
眼底正常。視神経正常。水晶体に濁りなし。網膜の血管に異常なし。瞳孔反射——正常。すべてが「正常」を示している。
正常なのに——色が見えない。
医学書を引っ張り出した。色覚異常。後天性色覚障害。脳腫瘍。視神経炎。——どれも当てはまらない。器質的な問題がないのだから。
顕微鏡でチヨの涙を調べた。正常な涙液。——何を探しているのか、自分でも分からない。何かを見つけなければならない。原因があるはずだ。原因がなければ治療できない。治療できなければ——。
テーブルの上に、コーヒーカップの染みが残っていた。今朝こぼした跡。拭いたが、木のテーブルに染みが残った。——チヨにはこの染みが何色に見えるのだろう。灰色か。
チヨは「大丈夫」と言った。いつもそう言う。嘘だ。怖いに決まっている。でもチヨは弱音を吐かない。
ならば——俺にできることは何だ。
色を伝えること。毎日、チヨの代わりに世界の色を見て、言葉で伝えること。空の青を。木の緑を。夕焼けの橙を。——それが、一人の人間として俺にできる精一杯だ。
机の引き出しを開けた。中に、手話の教本。まだ半分しか読んでいない。——次の感覚が消える前に、覚えなければ。
*
その夜。チヨは暗室に籠った。
懐中時計を開いた。赤い安全灯の下で、蓋の内側の微細な文字を拡大鏡で読む。三百年分の記録。歴代の夢写師が刻んだ知識。
——別の方法があるはずだ。
色を失った。たった一つの感覚を失っただけで、世界がこれほど変わる。あと四つ。声を失い、匂いを失い、触覚を失い、記憶を失う。——そんな未来を、黙って受け入れる気にはなれなかった。
時計の記録を、一文字ずつ追った。初代・千代の記録。二代目・春代の記録。三代目・美代の記録。——誰もが「代償」として感覚を差し出している。例外はない。
だが——四代目の記録に、奇妙な一節があった。
「別ノ道ヲ探シタ。感覚ヲ失ワズ、欠片ノ力ダケヲ引キ出ス方法。影向ノ井戸ニ直接、魂写機ヲ向ケル。自分ノ魂デハナク、井戸ノ水面ニ映ル写シ世ノ像ヲ撮ル。コレナラバ代償ナシニ——」
文字がそこで途切れていた。四代目の記録はこの一節で終わっている。
——失敗したのだ。
だが、失敗したという記録もない。途切れただけだ。もしかしたら——試す前に死んだのかもしれない。試していないなら——まだ可能性はある。
チヨは立ち上がった。
翌朝。シロミカゲの祠に行った。モノクロの視界で、白い狐の像を見上げた。
「別の方法があるはずです。四代目の記録に——」
シロミカゲの声が降りてきた。冷たい声。
「四代目の千歳か。あの者は——別の道を探した。井戸の水面に写る像を直接撮ろうとした」
「それで——」
「水面が砕けた。写し世の力が逆流し、千歳は右腕を失った。代償なしの封印は——存在しない。お前の母もそれを知っていた」
チヨの拳が震えた。
「なぜ——なぜ代償が必要なんですか。なぜ私たちは、何かを差し出さなければならないのですか」
「問いを間違えている」
「何が間違って——」
「なぜ代償が必要か、ではない。なぜお前がそれでも選ぶのか——それが問いだ」
チヨは黙った。怒りが胸の中で渦巻いていた。——理不尽だ。二十二年間、村のために写祓を続けてきた。母も祖母も。三代の女が命を削ってきた。それなのに——感覚を全部差し出せ。記憶を全部差し出せ。最後には存在そのものを差し出せ。
「——ふざけんな」
丁寧語が崩れた。自分でも驚いた。二十二年間、神に対して丁寧に話してきた。母にそう躾けられた。でも——今、その殻が割れた。
「ふざけんなよ……!」
息が荒い。肩で息をしている。拳を握りすぎて爪が掌に食い込んでいる。
「私はまだ二十二だ。ルカに味噌汁を作りたい。健司さんと星を見たい。写真を撮りたい。恋をしたい。歳をとりたい。——なんで、全部捨てなきゃいけないんですか」
最後だけ丁寧語に戻った。癖だ。怒っていても、最後だけ敬語に戻る。——それが、余計に痛々しかった。
シロミカゲは答えなかった。白い狐の像が、朝日の中で静かに光っていた。
長い沈黙の後、チヨは自分で答えを出した。
「……分かってます。分かってるんです。代わりがいないから。私しかいないから」
——嘘だ。分かっていない。分かりたくない。
チヨの中で、もう一つの声が叫んでいた。押し込めていた声。二十二年間、「いい子」でいるために封じてきた声。
——ルカが代わりに行けばいい。
その思考が、一瞬だけ脳裏を過ぎった。
妹の方が金色の瞳が強い。妹の方が若い。妹なら——。
——やめろ。
チヨは自分の頬を叩いた。モノクロの闇の中で。音はない。でも痛みだけは走った。
何を考えている。何を考えた。世界で一番大切な妹を——身代わりにしようとした。一瞬でも。
吐き気がした。自分が嫌いになった。こんな醜い考えが自分の中にあった。封印を受け入れたふりをしながら、心の底では——逃げたかった。生きたかった。消えたくなかった。ルカの代わりに消えるのが嫌だった。
——最低だ。
涙が溢れた。怒りの涙ではない。自分への嫌悪の涙。こんな人間が巫女をやっている。こんな人間がルカの姉をやっている。
でも——。
この醜さこそが、人間だ。聖女ではない。二十二歳の、怖くて、弱くて、醜い、普通の女。
「——でも、一度くらい、怒らせてください。一度くらい、運命に文句を言わせてください」
声は震えていた。怒りだけではなかった。自分の醜さを見た後の、情けなさも混ざっていた。
風が吹いた。杉の枝が揺れた。モノクロの世界で、チヨの涙だけが——たぶん、色を持っていた。
その日の夜。チヨは日記に書いた。
「四代目の千歳も、足掻いた。私も足掻いた。足掻いた上で、選ぶ。足掻かずに受け入れるのは諦めだ。足掻いた上で受け入れるのは——覚悟だ」




