第15話 光を見る目
色を失った代わりに、得たものがあった。
暗闇でも見える。夜中にトイレに起きたとき、廊下に明かりがなくても、すべてがはっきり見えた。月明かりすらない闇の中で、壁の木目も、天井の染みも、階段の手すりの傷も。
だが、それだけではなかった。
人の周りに——光が見える。
翌朝、ルカが降りてきたとき、チヨは息を呑んだ。ルカの体の周りに、淡い金色の光が揺れている。オーラのようなもの。温かくて、明るくて、ときどきちらちらと揺れる。不安で揺れているのだ。
「ルカ……」
「何?」
「——ううん。何でもない。今日の空の色、教えて」
「今日は曇り。灰色……って言ったら意味ないか。えっと、鼠色? 少し青みがかった灰色」
「ありがとう」
学校にルカを送り出した後、健司が来た。白衣姿のまま。彼の周りには——銀色の光。安定していて、強い。ルカの光が太陽なら、健司の光は月だ。
「聞いた。色が——」
「見えなくなった。でも、代わりに不思議なものが見えるようになったの」
「不思議なもの?」
「人の周りの光。魂の光——としか言いようがない。健司さんの周りには、銀色の光があるよ」
健司は少し戸惑っていた。医者として、視覚の変容は不安なのだろう。チヨの目を覗き込み、眼底を確認しようとした。
「……異常は見られない。網膜も正常に見える」
「科学では説明できないことよ」
「分かってる。分かってるが——チヨ」
健司がチヨの肩に手を置いた。
「辛くないか」
「辛いよ。ルカの瞳の色が分からない。あなたの顔の色も。でも——光は見える。それで十分」
午後、写祓の依頼が入った。村の西側に住む老婆の家。亡くなった夫の写真に、夜になると影が動くという。
色が見えなくても、魂写機は使える。チヨは暗室で湿板を準備した。影コロジオンの色が分からない——以前は虹色の干渉縞で塗布の均一さを確認していたが、今はそれができない。代わりに、液の広がる速度と粘度を指先の感覚で判断した。
老婆の家に到着し、魂写機をセットした。ファインダーを覗いた。
驚いた。以前より——はっきり見える。
色がない分、魂の光が鮮明だった。老婆の背後に漂う夫の残照が、白銀の輝きとしてくっきり浮かび上がっている。色の情報がノイズとして乗っていたのだ。色を失ったことで、本質だけが見えるようになった。
三呼吸。自分を開く。シャッターを切る。カシャリ。
現像した写真を老婆に渡した。チヨには白黒にしか見えないが、老婆は涙を流した。「お父さんが笑ってる。生きてた時と同じ顔で」
色がなくても、写真は撮れる。想いは写せる。——むしろ、余計なものが削ぎ落とされた分、純度が上がっているのかもしれない。
依頼を終えて帰る途中、村の東側を通った。
足が止まった。
東端の家の壁の色が——褪せている。チヨには色が見えないから、正確には分からない。だが、壁の表面の質感が変わっている。生きた壁ではなく、写真の中の壁のような——平面的な、奥行きのない表面。
ファインダーを覗いた。
東端の家々の周囲に、薄い紫の靄が漂っている。写し世の気配。封印が弱まった場所から、世界が写し世に浸食され始めている。
チヨは静かに歩き出した。明日は水の欠片だ。声と音を失う。
——今夜、ルカの声をたくさん聞いておこう。
写真館に戻ると、ルカが宿題をしていた。
「おかえり! 今日の空ね、午後から晴れて、夕焼けがすごいよ。橙色——姉ちゃんの好きな色」
「……ありがとう。橙色、好きだったよ」
「好きだった? 今も好きでしょ?」
「——うん。今も好き」
橙色が何色か、もう思い出せない。でも、ルカが「好きな色」と言ってくれるから——まだ、好きだと思える。
*
翌日。写祓の依頼が入った。
霧乃川沿いの古い民家。三ヶ月前に亡くなった老人——神田源一郎の遺族から。「父の部屋から離れない影がある」と。
家に入った瞬間、異変に気づいた。魂の光が——暗い。普通の残留思念なら淡い白や金の光を放つ。だがこの家に漂う光は紫。写し世に近い色だ。
奥の部屋。畳の上に、源一郎の影が蹲っていた。写し世に半分引きずり込まれた存在。境界線上で、どちらにも行けずに動けなくなっている。
三呼吸。自分を開いた。
源一郎の想いを読んだ。強い。あまりにも強い未練。——妻に謝りたかった。最後の言葉が口論だった。「出ていけ」と言ったのが最後。翌朝、妻が脳溢血で倒れた。「出ていけ」を取り消せないまま、三年後に源一郎も死んだ。
チヨはシャッターを構えた。ファインダーを覗く。像を結ぶ。切った。
——紫の光が爆発した。
チヨの体が壁まで吹き飛ばされた。背中を打った。部屋中に紫の靄が充満する。源一郎の未練が暴走した。想いが強すぎる。色を失った今のチヨでは——受け止めきれない。
初めてだった。写祓が、失敗した。
魂写機を見た。レンズに罅が入っていた。細い、髪の毛ほどの罅。源一郎の想いの衝撃で。
シロミカゲの声が脳裏に響いた。
「お前の力は、欠片を失うたびに弱くなる。色を失った今のお前では、あの強さの未練は受け止められない」
チヨは立ち上がり、源一郎の影に向かって頭を下げた。
「……ごめんなさい。今の私では、あなたの想いを写せません。でも——いつか、次の夢写師が」
家を出た。手が震えていた。レンズの罅を指でなぞった。この罅は修理できない。残りの写祓は——罅の入ったレンズで行うことになる。
帰り道、ルカとすれ違った。
「姉ちゃん、顔色悪いよ」
「——ちょっと疲れただけ」
二十二年間で初めての失敗。そしてルカに言えない失敗。




