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第16話 最後の声

 1994年5月19日。


 二日間を置いた。チヨの体が色彩の喪失に適応するための時間だった。シロミカゲが「急ぎすぎるな。体が壊れる」と忠告した。


 今日、水の欠片を手に入れる。代償は聴覚と声。


 朝。チヨは台所に立ちながら、耳を澄ませた。


 すべての音を、聞いておきたい。


 鍋の中で湯が沸く音。ぽこぽこという気泡の音。味噌を溶くときの、とろりとした音。包丁がまな板を叩くリズム。トントントン。窓の外で鳥が鳴いている。鶯だ。ホーホケキョ。裏庭の雀のさえずり。遠くで犬が吠えている。近所の柴犬。風鈴が鳴る。チリン。


 すべてが——音楽だった。日常の音楽。毎朝聞いていたのに、聞こえなくなると分かった途端、すべての音が宝石になる。


 階段が鳴った。三段目。ルカが降りてくる。


「おはよう、姉ちゃん」


 ルカの声。低すぎず高すぎず、少し鼻にかかった声。寝起きのときは掠れている。今朝は——透き通っている。よく眠れたのだろう。


「おはよう、ルカ」


 チヨは自分の声を聞いた。自分の声が、どんな音をしているか、改めて意識した。低めの、落ち着いた声。母に似ていると言われたことがある。


「今日の空は——」


「言わなくていいよ。今日は私が聞きたい。ルカの声で、何でもいいから話して」


「え? 何でも?」


「何でも。学校のこと。友達のこと。昨日見た夢のこと」


 ルカは首を傾げたが、話し始めた。美術部の友達が描いた水彩画のこと。数学の小テストで思ったより点が取れたこと。給食のメニューが来週からカレーが増えること。


 チヨは味噌汁を作りながら、ルカの声を聞いた。内容はどうでもよかった。声の響きを、一音一音、胸に刻んでいた。


 ルカの声には癖がある。嬉しいときは語尾が上がる。困っているときは「えーと」を繰り返す。照れているときは早口になる。怒っているときは——ほとんど聞いたことがない。この子はあまり怒らない。


「——で、そのとき先生がね、『橋爪さんの色使いは独特だ』って。また独特って言われた」


「褒め言葉よ」


「姉ちゃんもそう言うね」


「本当のことだから」


 朝食を食べ終え、ルカが鞄を持って立ち上がった。


「行ってきます!」


「ルカ」


 チヨはルカの腕を掴んだ。ルカが振り返る。


「大好きよ。世界で一番大切な妹」


「……え、急にどうしたの」


「言いたかっただけ。行ってらっしゃい」


 ルカは少し戸惑いながらも、嬉しそうに笑った。


「私も大好きだよ、姉ちゃん」


 門を出て、石畳を走る。角を曲がる前に振り返って、手を振った。


「チヨ姉ちゃん!」


 最後に聞くルカの声は、自分の名前だった。


 ——チヨ姉ちゃん。


 その四文字が、耳の中でいつまでも響いていた。「チ」の破裂音。「ヨ」の開放感。「ね」の柔らかさ。「え」の伸び。「ち」の再び。「ゃ」の愛嬌。「ん」の鼻音。七つの音素が、この世界でチヨを最も幸せにする組み合わせだった。


 これを——もう聞けなくなる。


 チヨは玄関に立ったまま、目を閉じた。ルカの声を、記憶の一番深い場所に格納した。金庫の中の金庫に。鍵をかけて。忘却の霧でも溶けない場所に。


        *


 午後。霧乃川の上流、滝壺のそばに水の欠片があった。


 水の中に沈んでいる青い結晶。チヨは着物の裾をまくり、冷たい水に足を踏み入れた。川底の石が足裏に当たる。水が膝まで来る。冷たい。五月の山の水は、まだ雪解けの温度だ。


 手を水に入れた。指先が結晶に触れた瞬間——。


 音が、消えた。


 滝の音が消えた。水のせせらぎが消えた。自分の呼吸の音が消えた。世界から、音というものが、完全に抜け落ちた。


 口を開けた。声を出そうとした。


 喉が震えているのは分かる。声帯が動いている感触はある。それなのに——音が出ない。音として耳に届かない。


 無音の世界。


 滝は落ちている。水は流れている。でも、何も聞こえない。石の上に水滴が落ちるのが見えるが、音はない。鳥が枝で口を開けているが、聞こえない。


 チヨは川から上がった。手のひらに、水色の結晶。水の欠片。


 着物のポケットの中で、何かが震えた。健司に借りていたポケベル。液晶画面に、カクカクとした粗いデジタル数字が浮かんでいる。ルカからのメッセージ。「0840106」。無機質な緑色の光。084はオハヨ。0106はオテルネ——いるよ。ルカの柔らかな声を、冷たい液晶の数字が代弁している。チヨは数字を見つめて、頭の中で妹の声に戻す。0。8。4。——お、は、よ。。プラスチックの筐体が手の中で震えている。心臓のように。規則正しく、必死に、誰かが呼んでいる。でもその声は——もう、届かない。手の中の機械だけが、音のない世界でチヨを呼び続けている。


 ——ふっ。


 液晶のバックライトが消えた。緑色の光が途切れた。数字が闇に沈んだ。電池切れではない。ただ、消えた。完全な闇と完全な沈黙が、手のひらの中で同時に訪れた。音と光が同じ速度で離れていく。チヨはもう——片足を、消えゆく世界に置いている。


 シロミカゲが岸辺に立っている。口が動いているのが見えるが、何を言っているか分からない。読唇しようとしたが、シロミカゲの口の形は人間のそれとは違う。


 チヨは唇を動かした。声は出ない。でも——。


 ——聞こえないけど、分かる。


 シロミカゲの体の周りに、音の代わりに「波紋」のようなものが見えた。水面に石を投げたときの波紋が、空気中に広がっている。その波紋の形で、何を言おうとしているか——なんとなく伝わる。


「代償は果たされた。声と聴覚を失い、代わりに水の記憶を読む力を得た」


 水の記憶。川面を見た。水面に、映像が浮かんでいた。この川の過去。十年前、二十年前、百年前——水が覚えている風景が、次々と映し出されている。子供が川で遊ぶ姿。女性が洗濯をする姿。橋が架けられる様子。すべてが、水の中に保存されていた。

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