第17話 沈黙の食卓
翌朝。
味噌汁を作る。鍋が沸騰しているかどうか、音では分からない。蓋を少し持ち上げて、湯気で確認する。味噌を溶く感触だけを頼りに、濃さを調整する。匂いは分かる。味噌の匂いが立ちのぼる。まだ嗅覚はある。
卵焼きも作った。焼き色は——色が見えないから分からない。匂いと時間で判断した。少し焦げた匂いがしたから、早めにひっくり返す。
ルカが降りてきた。
口が動いている。「おはよう」と言っているのだろう。唇の形で分かる。チヨも唇を動かした。音は出ない。
ルカの目が曇った。昨夜、チヨが声を失ったことは伝えてある。覚悟していたはずだが、実際に姉の声が聞こえないと——現実が重い。
昨夜のうちに、筆談用のノートを三冊用意しておいた。テーブルの上に、ペンと一緒に並んでいる。チヨがペンを取り、書いた。
『おはよう。今日の卵焼き、焦がしたかもしれない。味見して』
ルカはノートを読んで、卵焼きを一口食べた。首を振った。ペンを取った。
『焦げてない。ちょうどいい。いつもの味』
チヨは微笑んだ。匂いと時間だけで、同じ味が作れた。体が覚えている。
『それと、大好きの手話教えてあげる』
ルカが両手を胸の前に置き、形を作った。手話の「大好き」。チヨは知らなかった。
「いつ覚えたの?」——と聞こうとしたが、声が出ない。ノートに書いた。
『いつ覚えたの?』
『昨日の夜。図書館で手話の本借りてきた。姉ちゃんと話すために』
昨日の夜。チヨが声を失ったのは昨日の午後だ。ルカは放課後に図書館に寄り、手話の本を借り、夜中に練習していたのだ。
チヨは同じ形を真似た。ルカが頷いた。涙が頬に残ったままの笑顔。
健司が来た。白衣姿のまま。手に、手話の教本のコピーを持っている。一晩で要点をまとめたらしい。基本的な挨拶と、よく使う医療用語と、体調確認のための表現。医者らしい、正確で几帳面な字。イラストだけは相変わらず下手だった。
『手話、覚え始めた。まだぎこちないが。これから毎日練習する。「痛い」「苦しい」「大丈夫」は優先で覚えた』
チヨは健司のノートを見つめた。一晩で。この人は、一晩で手話の本を読み、教本を作り、練習したのだ。眠っていない。目の下に隈がある。白衣に昨日のコーヒーの染みが残っている。この人はいつもそうだ。チヨに何かが起きるたびに、自分にできることを全力で探す。できないことに嘆くのではなく、できることを積み上げる。
『ありがとう』
ペンで書いた。文字が震えていたのは、涙のせいだった。
*
その日の午後、村の東側の三世帯が、荷物をまとめて久遠木へ向かった。
チヨは窓から見ていた。軽トラックに家財道具を積む人々。子供が泣いている——声は聞こえないが、口の形と肩の震えで分かる。親が無理に笑顔を作っている。
おばあさんが家の鍵を閉めるとき、振り返って家に話しかけていた。
何を言っているのか聞こえない。でも唇が読めた。
——また戻ってくるからね。
チヨはそれを見ていた。戻れないと知っている。この村はもう、元には戻らない。封印が弱まり続ける限り、色が消え、音が消え、記憶が消えていく。
おばあさんが軽トラックに乗り込むとき、チヨに気づいた。窓越しに手を振った。口が動いた。「チヨちゃん、元気でね」——たぶん。
チヨは手を振り返した。声は届かない。でも手を振ることはできる。
軽トラックが霧の中に消えていった。村が、少しずつ空になっていく。
*
声を失った翌日。写真館に依頼客が来た。
チヨは暗室にいた。湿板の在庫を確認していた。——呼び鈴が鳴ったはずだ。でも聞こえない。
どれくらい時間が経っただろう。暗室を出ると、居間にルカと——見知らぬ中年の女性が座っていた。ルカが困った顔をしている。
ルカがノートを差し出した。
『姉ちゃん、お客さん来てる。三十分くらい前から。呼び鈴鳴らしたけど、姉ちゃん出てこないから、私が対応してた』
三十分。客を三十分も待たせてしまった。
チヨはノートに書いた。
『ごめん。暗室にいて気づかなかった』
ルカは少し怪しそうな目をしたが、何も言わなかった。——居眠りしていたと思ったのだろう。
依頼を受けた。七日忌の写真の現像。普通の仕事だ。客と筆談で打ち合わせをした。「声がかれていまして」と嘘をついた。客は不審がらなかった。
客が帰った後、チヨは写真館の入口に鏡を設置した。暗室のドアの前に置く。入口のガラス戸に人影が映ったら、鏡越しに見える——はずだ。音が聞こえなくても、視覚で気づける。
ルカが鏡を見て首を傾げた。
「なんで鏡?」
チヨはノートに書いた。
『暗室にいると入口が見えないから。鏡があれば、お客さんが来たの分かる』
「……ふうん。姉ちゃん、最近ちょっとおかしいよ?」
チヨは笑って首を振った。大丈夫、大丈夫。
——大丈夫じゃない。でもルカに心配をかけるわけにはいかない。あと何日——この演技を続けなければならないか。カウントダウンが、チヨの頭の中で静かに進んでいた。




