表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/22

第17話 沈黙の食卓

 翌朝。


 味噌汁を作る。鍋が沸騰しているかどうか、音では分からない。蓋を少し持ち上げて、湯気で確認する。味噌を溶く感触だけを頼りに、濃さを調整する。匂いは分かる。味噌の匂いが立ちのぼる。まだ嗅覚はある。


 卵焼きも作った。焼き色は——色が見えないから分からない。匂いと時間で判断した。少し焦げた匂いがしたから、早めにひっくり返す。


 ルカが降りてきた。


 口が動いている。「おはよう」と言っているのだろう。唇の形で分かる。チヨも唇を動かした。音は出ない。


 ルカの目が曇った。昨夜、チヨが声を失ったことは伝えてある。覚悟していたはずだが、実際に姉の声が聞こえないと——現実が重い。


 昨夜のうちに、筆談用のノートを三冊用意しておいた。テーブルの上に、ペンと一緒に並んでいる。チヨがペンを取り、書いた。


『おはよう。今日の卵焼き、焦がしたかもしれない。味見して』


 ルカはノートを読んで、卵焼きを一口食べた。首を振った。ペンを取った。


『焦げてない。ちょうどいい。いつもの味』


 チヨは微笑んだ。匂いと時間だけで、同じ味が作れた。体が覚えている。


『それと、大好きの手話教えてあげる』


 ルカが両手を胸の前に置き、形を作った。手話の「大好き」。チヨは知らなかった。


「いつ覚えたの?」——と聞こうとしたが、声が出ない。ノートに書いた。


『いつ覚えたの?』


『昨日の夜。図書館で手話の本借りてきた。姉ちゃんと話すために』


 昨日の夜。チヨが声を失ったのは昨日の午後だ。ルカは放課後に図書館に寄り、手話の本を借り、夜中に練習していたのだ。


 チヨは同じ形を真似た。ルカが頷いた。涙が頬に残ったままの笑顔。


 健司が来た。白衣姿のまま。手に、手話の教本のコピーを持っている。一晩で要点をまとめたらしい。基本的な挨拶と、よく使う医療用語と、体調確認のための表現。医者らしい、正確で几帳面な字。イラストだけは相変わらず下手だった。


『手話、覚え始めた。まだぎこちないが。これから毎日練習する。「痛い」「苦しい」「大丈夫」は優先で覚えた』


 チヨは健司のノートを見つめた。一晩で。この人は、一晩で手話の本を読み、教本を作り、練習したのだ。眠っていない。目の下に隈がある。白衣に昨日のコーヒーの染みが残っている。この人はいつもそうだ。チヨに何かが起きるたびに、自分にできることを全力で探す。できないことに嘆くのではなく、できることを積み上げる。


『ありがとう』


 ペンで書いた。文字が震えていたのは、涙のせいだった。


        *


 その日の午後、村の東側の三世帯が、荷物をまとめて久遠木へ向かった。


 チヨは窓から見ていた。軽トラックに家財道具を積む人々。子供が泣いている——声は聞こえないが、口の形と肩の震えで分かる。親が無理に笑顔を作っている。


 おばあさんが家の鍵を閉めるとき、振り返って家に話しかけていた。


 何を言っているのか聞こえない。でも唇が読めた。


 ——また戻ってくるからね。


 チヨはそれを見ていた。戻れないと知っている。この村はもう、元には戻らない。封印が弱まり続ける限り、色が消え、音が消え、記憶が消えていく。


 おばあさんが軽トラックに乗り込むとき、チヨに気づいた。窓越しに手を振った。口が動いた。「チヨちゃん、元気でね」——たぶん。


 チヨは手を振り返した。声は届かない。でも手を振ることはできる。


 軽トラックが霧の中に消えていった。村が、少しずつ空になっていく。


        *


 声を失った翌日。写真館に依頼客が来た。


 チヨは暗室にいた。湿板の在庫を確認していた。——呼び鈴が鳴ったはずだ。でも聞こえない。


 どれくらい時間が経っただろう。暗室を出ると、居間にルカと——見知らぬ中年の女性が座っていた。ルカが困った顔をしている。


 ルカがノートを差し出した。


『姉ちゃん、お客さん来てる。三十分くらい前から。呼び鈴鳴らしたけど、姉ちゃん出てこないから、私が対応してた』


 三十分。客を三十分も待たせてしまった。


 チヨはノートに書いた。


『ごめん。暗室にいて気づかなかった』


 ルカは少し怪しそうな目をしたが、何も言わなかった。——居眠りしていたと思ったのだろう。


 依頼を受けた。七日忌の写真の現像。普通の仕事だ。客と筆談で打ち合わせをした。「声がかれていまして」と嘘をついた。客は不審がらなかった。


 客が帰った後、チヨは写真館の入口に鏡を設置した。暗室のドアの前に置く。入口のガラス戸に人影が映ったら、鏡越しに見える——はずだ。音が聞こえなくても、視覚で気づける。


 ルカが鏡を見て首を傾げた。


「なんで鏡?」


 チヨはノートに書いた。


『暗室にいると入口が見えないから。鏡があれば、お客さんが来たの分かる』


「……ふうん。姉ちゃん、最近ちょっとおかしいよ?」


 チヨは笑って首を振った。大丈夫、大丈夫。


 ——大丈夫じゃない。でもルカに心配をかけるわけにはいかない。あと何日——この演技を続けなければならないか。カウントダウンが、チヨの頭の中で静かに進んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ