第18話 川の記憶
声を失ってから三日が経った。
筆談の生活にも、少しずつ慣れた。テーブルの上にはいつもノートとペンが置いてある。三冊のノートは、それぞれ役割が違う。一冊目は日常会話用。二冊目はチヨの記録用(村の変化、欠片の情報、写祓の技術メモ)。三冊目は——ルカへの手紙の続きだ。毎夜、書き足している。
ルカは手話を毎日練習している。まだぎこちないが、「おはよう」「おやすみ」「大好き」「ありがとう」「大丈夫」「ごはん」は伝わるようになった。学校で友達に「なんで手話やってるの?」と聞かれたらしい。「姉ちゃんと話すため」と答えたと、ノートに書いてあった。
健司は診療所の合間に手話の教本を読み込んでいる。医学論文を読むのと同じ集中力で。すでに五十語以上覚えた。医療用語も——「痛い」「熱がある」「薬」「大丈夫」。チヨが体調を崩したときのために。
チヨは新しい力——水の記憶を読む力——を使い始めていた。
霧乃川の岸辺に立ち、水面に手をかざす。指が水面に触れると——映像が浮かぶ。
この川は、村の記憶をすべて覚えていた。水は流れ、海に注ぎ、蒸発し、雨になってまた山に降る。だがその循環の中で、水が触れた場所の記憶を——一滴一滴が保存している。
百年前の祭りの風景が見えた。提灯の行列が川辺を歩いている。太鼓の音は聞こえないが、水面に映る振動で——かつてここに音楽があったことが分かる。
五十年前の洪水。川が暴れ、橋が流され、人々が逃げ惑う。水面の記憶は生々しい。
三十年前の橋の架け替え工事。職人たちが汗を流し、石を積んでいる。あの苔むした橋が、こうして作られたのだ。
そして——十年前。子供の頃のチヨと健司とルカが、川で水遊びをしている姿。チヨが石を投げて水切りをしている。健司がルカを肩車している。三人の笑い声は聞こえないが、水面に映る顔はすべて笑っている。
チヨは水面に映る過去を見ながら、ノートに記録した。村の記憶が消える前に、できるだけ多くを残しておきたい。写真に撮れないものは、文字にする。文字にできないものは、心に刻む。心が消えたら——それでも、どこかに残っていると信じる。
午後、写真館に戻ると、ルカがチクワを膝に抱いて座っていた。ノートを差し出した。
『姉ちゃん。今日の空の色。水色。雲がなくて、全部水色。でも夕方になったら、きっとオレンジになるよ』
チヨはペンを取った。
『ありがとう。水色、好きよ』
『あと、今日のニュース。チクワがネズミを捕まえた。でも逃がした。やさしいのかドジなのか分からない』
チヨは声を出さずに笑った。肩が揺れるだけの笑い。ルカも笑った。声のない笑い。でも——二人の肩が同じリズムで揺れていた。
声がなくても、笑える。音がなくても、伝わる。
ふと、チヨは気づいた。ルカの笑い声がどんな音だったか、もう思い出せない。昨日までは覚えていたのに。声の記憶が、色の記憶と同じように——名前だけ残って、実感が消えていく。「鈴のような笑い声」と言葉では分かる。だが、その鈴の音が——聞こえない。
窓の外では、村の鳥が鳴かなくなっていた。チヨには聞こえないが、ルカがノートに書いた。
『姉ちゃん。鳥が鳴かなくなった。朝からずっと。風鈴も鳴らない。風は吹いてるのに。静かすぎて怖い』
チヨはルカの手を握った。答えは書かなかった。書けなかった。
鳥が消えたのではない。鳥の声が——この村から、消え始めているのだ。風鈴ももう鳴らない。風は吹いているのに、金属が音を立てない。村が、沈黙に沈んでいく。チヨが声を失ったのと、同じ速度で。
*
その夜。ルカがスケッチブックを持ってきた。ノートに書いた。
『姉ちゃん、ちょっと見て。変なの』
チヨにはモノクロにしか見えないが、スケッチブックを受け取った。ルカの水彩画。庭の紫陽花——のはずだ。
『今日、美術部で描いたんだけど。色がおかしいの。青い絵の具を使ってるのに、紙の上に乗ると灰色になっちゃう。友達にも「ルカちゃん、それ灰色だよ」って言われた』
チヨの心臓が凍った。ルカの絵から——色が消え始めている。姉が欠片を集めるたびに、金色の瞳を持つ妹にも影響が及んでいるのだ。
『たぶん絵の具が古くなったのよ。新しいの買おう』
嘘をついた。でもこれ以上、ルカに心配をかけるわけにはいかない。
ルカは「そっか」と頷いた。だがノートに追記した。
『あと、もう一つ。今日、姉ちゃんの名前を書こうとしたら——一瞬、漢字が分からなくなった。「千代」の「千」がぼやけた。すぐ思い出したけど。疲れてたのかな』
チヨは動けなかった。ルカの記憶に罅が入り始めている。まだ一瞬だけ。すぐに戻る程度。でも——封印に近づくほど、この罅は広がる。
急がなければ。中途半端に壊れるのが一番危険だ。




