第19話 最後の味
1994年5月21日。
チヨの世界から、色と音が消えた。残っているのは——匂いと味。触覚と視力。そして記憶。
今日、風の欠片を手に入れる。代償は嗅覚と味覚。
朝。チヨは台所に立ち、深呼吸をした。
味噌汁の匂い。出汁の匂い。昆布と鰹節が水の中で出会い、旨味が立ちのぼる匂い。毎朝嗅いでいた匂い。母の匂い。家の匂い。
今日が最後だ。
ゆっくりと、一つずつ。冷蔵庫を開ける。昨日買った卵。殻の滑らかな表面。ネギ。切り口から青い匂いが立つ。味噌の壺の蓋を開ける。赤味噌の濃厚な匂い。発酵した大豆の、深い、複雑な匂い。
全部、覚えていたい。
味噌汁ができた。椀に注ぐ。湯気が立ちのぼる。味噌の匂いが顔に触れる。
一口飲んだ。
甘い。いつも通りの甘さ。ルカの好みに合わせた、少し甘めの味噌汁。豆腐が舌の上でほどける。ネギのしゃきしゃきした歯応え。出汁の旨味が口の中に広がる。
——おいしい。
チヨは椀を両手で包んだ。味噌汁の温かさが、手のひらに伝わる。この温度。この味。この匂い。
ルカが降りてきた。手話で「おはよう」。チヨも手話で返す。
二人で黙って朝食を食べた。音のない食卓。でも、味はある。匂いはある。
ルカがノートに書いた。
『今日の卵焼き、いつもよりおいしい気がする』
チヨはペンを取った。
『今日は砂糖を多めにした。特別な朝だから』
『なんで特別?』
チヨは少し考えた。
『——ルカと一緒に食べるから』
*
午後。チヨは健司とルカの三人で、最後の食事をした。
健司が診療所の裏庭で育てている野菜を持ってきた。トマト、きゅうり、茄子。チヨがそれを使って、夏野菜の煮込みを作った。唐辛子を少し多めに。辛いものが好きだった。「好きだった」ではなく「好きだ」——まだ味が分かる。今は、まだ。
三人でテーブルを囲む。筆談のノートが三冊、テーブルの上に散らばっている。ルカのノートには落書きが混じっている。チクワの絵。健司のノートは几帳面な字で埋まっている。チヨのノートは——最近、字が乱れてきた。
チヨは一口ごとに、味を確かめた。トマトの酸味。夏の光を凝縮したような甘さの裏にある、きりりとした酸。茄子の柔らかさ。箸で持ち上げると、煮汁を吸って重い。唐辛子の辛味が舌を灼く。この辛さが好きだ。頭の奥がすっきりする。考えなくていいことを、辛さが追い出してくれる。
健司が持ってきたトマトは、完熟で甘い。「今年の出来は上々だ」と、ノートに書いてあった。来年のトマトを、チヨは食べられない。でもルカが食べるだろう。健司のトマトを、ルカが食べてくれるだろう。
食事の途中で、チヨはノートに書いた。
『お願いがある。この料理、おいしいって言って。私の代わりに。声に出して。私に聞こえなくてもいい。空気を震わせて』
ルカと健司が顔を見合わせた。ルカがノートに書きかけて——やめた。ペンを置いて、背筋を伸ばした。代わりに、口を開けた。
「おいしいよ、姉ちゃん」
聞こえない。でも、唇が読めた。ルカの口の動き。「お・い・し・い・よ」。ルカの目が赤い。でも笑っていた。
健司も口を開けた。
「うまい。チヨの料理は、いつもうまい」
聞こえない。でも、伝わった。
チヨはノートに書いた。
『ありがとう。この味を、覚えていてね。二人とも』
三人で食卓を囲んだ最後の食事。チヨは一口ごとに、味を脳に刻みつけた。
味噌汁。いつもの甘めの味噌汁。この味は——ルカの体が覚えている。チヨが消えても、ルカの手がこの味を再現する。
卵焼き。砂糖を多めに。ルカの好みに合わせて。——明日から、この味を自分で確認できなくなる。ルカに託すしかない。
唐辛子の煮込み。辛い。頭がすっきりする。この辛さを——チヨは好きだった。でも、もう「好きだった」と過去形でしか言えない。明日からは味が分からない。辛いかどうかも。
健司が持ってきたトマト。完熟の甘さ。もぎたての酸味。——来年のトマトを、チヨは食べられない。でもルカが食べるだろう。健司のトマトを。
食後、チヨはノートにもう一文書いた。
『この食卓が、三人でいる最後の食卓かもしれない。——でも、この味は残る。あなたたちの中に』
ルカと健司は顔を見合わせた。「最後」という言葉に、二人とも引っかかっただろう。それでも何も聞かなかった。聞けなかった。
*
夕方。シロミカゲの導きで、村の北の竹林に向かった。風の欠片は竹の根元に埋まっていた。
手が結晶に触れた瞬間、匂いが消えた。竹林の青い匂いが。土の匂いが。自分の着物に染みついた現像液の匂いが。
次に、味が消えた。口の中に残っていた味噌汁の後味が、蒸発するように消えた。舌の上に何の感覚もない。唾液の味すら分からない。
匂いのない世界。味のない世界。色もなく、音もなく、今度は匂いも味もない。
残っているのは——視覚、触覚、そして記憶。
竹林を出るとき、足元の落ち葉を踏む感触だけが確かだった。
*
翌朝。味噌汁を作った。
味が分からない。いつもの手順で作ったが、濃いのか薄いのか判断できない。味噌を溶いた瞬間に舌で確かめる——という二十二年間の習慣が、無意味になっていた。
暗室に入り、棚から塩の瓶と砂糖の瓶を取り出した。指先に少量乗せて舐めた。
——同じだ。
塩も砂糖も、舌の上で同じ感触がする。ざらりとした粒。それだけ。しょっぱさも甘さもない。石を噛んでいるのと変わらない。水を飲んだ。——水の味すら分からない。
チヨは暗室の床に座り込んだ。トングが棚から落ちた。自分の指の形に凹んだトング。拾い上げた。冷たい。真鍮の冷たさだけは分かる。
味がない世界は——匂いがない世界よりも辛かった。「おいしい」が消えた。ルカに「おいしい」と言ってもらうために作ってきた味噌汁が——おいしいかどうか、もう分からない。
ルカが食卓についた。味噌汁を飲んだ。ノートに書いた。
『姉ちゃん、今日ちょっと塩辛いかも?』
『夏バテ防止よ。塩分多めにした』
嘘だ。味が分からないから味噌を入れすぎた。ルカは首を傾げたが、味噌汁を飲み干した。チヨの味噌汁なら、塩辛くても飲む。
* ——健司の独白——
チヨが匂いと味を失った。
深夜の診療所。デスクの上にチヨのカルテが広がっている。
色覚喪失:原因不明。聴覚喪失:原因不明。発声停止:原因不明。嗅覚喪失:原因不明。味覚喪失:原因不明。
五つの「原因不明」。五つの敗北。
俺は医者だ。病因を特定し、治療法を選び、薬を処方する。それが俺の仕事だ。——だがチヨの前では、俺は医者ではいられない。カルテに「原因不明」と書くたびに、自分の無力さが刻まれていく。
手話の教本を開いた。今夜も新しい表現を覚える。「大丈夫」。「そばにいる」。「怖くない」。
——俺にできることは何だ。
味を伝えることはできない。でも——明日、チヨの好きだった唐辛子の煮込みを持っていこう。チヨは味が分からないが、ルカが「おいしい」と言う。その振動が、チヨに伝わるかもしれない。
医者として何もできないなら——人間として、できることをする。




