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第20話 逆さまの雨

 夕霧村に、異変が起きた。


 チヨが竹林から帰る途中だった。空を見上げると、雲が——おかしい。雲が、下に向かって伸びている。普通は上に膨らむ雲が、地面に向かって垂れ下がっている。


 そして——雨が、降り始めた。


 だが、上からではなかった。


 地面から、水滴が浮き上がっている。


 最初は一滴。道端の水溜りから、小さな水滴がゆっくりと浮かび上がった。次に二滴、三滴。田んぼの水面から、川の水面から、屋根の雨樋に残った水から——無数の水滴が、空に向かって昇り始めた。


 下から上に降る雨。


 チヨの髪が——ふわりと浮いた。肩から離れて、上に向かって広がっていく。足が少し軽い。地面から浮き上がりそうになる。写し世が、チヨを引っ張っている。封印が近い体を、「こちらに来い」と誘っている。


 チヨは足に力を入れた。まだ——まだ、こちら側にいる。


 昇っていく水滴の一つが、唇に触れた。反射的に舌を出した。冷たい——冷たいことだけは分かった。だが味は——。甘いのか。苦いのか。村の百年の記憶を含んだ雨は、どんな味がするのか。舌の上で水滴が溶けていく。何も感じない。村の記憶が自分の唇を通り過ぎていくのに、それを味わうことすらできない。


 重力が反転している。局所的に、この村だけ。写し世の法則が現世に侵食している。暖色は暗く、寒色は明るく——そして今、上と下が入れ替わった。


 昇っていく水滴が、空中で光を帯びた。モノクロのチヨの目にも分かる——水滴が、明るく光っている。おそらく金色。村の記憶を含んだ水が、空に還っていくのだ。


 水の欠片で得た力が、ここで働いた。昇っていく水滴の一つ一つに、映像が見えた。


 水溜りの水滴には、昨日そこを歩いた子供の足跡の記憶。小さな長靴が泥を跳ねた瞬間。田んぼの水滴には、春に苗を植えた農夫の手の記憶。泥だらけの指が一本ずつ苗を立てていく。霧乃川の水滴には——百年分の夏祭りの記憶が、小さな球の中で回転している。提灯の光、子供の笑い声、太鼓のリズム。すべてが水の中に保存されていた。


 屋根の雨樋から昇った水滴には、この家で暮らした家族の記憶があった。朝食の湯気。夕飯の匂い。子供が走り回る足音。おばあちゃんが縁側で居眠りしている姿。——全部、水が覚えていた。


 チヨは立ち尽くした。村の歴史が、一滴ずつ、空に還っていく。百年の記憶が、千の水滴になって、空に吸い上げられていく。止められない。手を伸ばしても、水滴は指の間をすり抜けていく。


 村人が家から出てきた。口々に何か叫んでいる。チヨには聞こえない。だが表情は見える。驚き。恐怖。そして——言いようのない悲しみ。


 隣家の物干し竿から、洗濯物が浮き上がった。白いシーツが空に向かって広がり、凧のように昇っていく。タオルが。靴下が。子供の体操服が。——生活が、空に剥がされていく。


 桐生さんの時計屋の窓から、歯車が一つ飛び出した。小さな真鍮の歯車が、きらきら光りながら空に昇っていく。百年の柱時計の部品が——重力を無視して。


 台所の窓が開いた家では、鍋の中の水が天井に張りついていた。茶碗が浮き上がり、食卓の上を漂っている。醤油差しが横倒しになり、黒い液体が天井に向かってゆっくり昇っていく。


 小学校の校庭で、子供たちが立ち尽くしていた。ピンクのチョークの女の子がいる。空に昇る水滴を見上げて、両手を伸ばしている。水滴を掴もうとしているのか。手の間をすり抜けて、水滴は空に消えていく。


 黒板に、あの字がまだ残っていた。「ともだちにやさしくする」。ピンクのチョーク。


 チヨはその光景を魂写機で撮った。逆さまの雨が空に昇る村。声は出せない。シャッター音も聞こえない。ただ、ファインダーの中で、世界が壊れていくのを記録した。


 雨は三十分ほどで止んだ。止んだとき、村の花壇の花が——すべて枯れていた。色だけでなく、命そのものが抜け落ちたように、茎が折れ、花弁が地面に散っていた。


 その日の夜、村人の半数以上が避難を決めた。


 チヨは写真館の二階の窓から、村を見下ろしていた。モノクロの視界。音はない。匂いもない。味もない。


 ただ——魂の光が見える。


 村中の家々から、熱が動いている。人の熱。家族の熱。荷物を積む手の熱。抱き上げられる子供の熱。門を振り返る老人の熱。


 佐々木さんの八百屋。店先のトマトが箱に詰められていく。佐々木さんの周りの光が——揺れている。悲しみで。長年この場所で商売をしてきた。「いらっしゃい」と叫んだ場所。チヨのトマトを選んでくれた場所。


 桐生さんの時計屋。老人が百年の柱時計の前に立っている。持ち出せない。大きすぎて。桐生さんの光は——静かだ。諦めている。でもその静けさの中に、深い愛惜がある。時計の硝子を布で拭いている。最後の手入れ。「時計は止まったら終わりだ」——あの言葉が、チヨの記憶に残っている。


 小学校の前。先生が子供たちを集めている。ピンクのチョークの女の子がいる。泣いている——たぶん。光が激しく揺れている。女の子の手を、母親が引いている。校庭の黒板に「ともだちにやさしくする」の文字が残ったまま。誰も消さなかった。消す暇がなかった。


 村の南端から、トラックが一台ずつ出発していく。ヘッドライトの熱が、霧の中を切り裂く。一台。二台。三台。——村から熱が抜けていく。人の熱が。生活の熱が。百年分の記憶の熱が。


 最後に残ったのは、写真館と、診療所と、影向稲荷だけだった。三つの熱源。チヨと、健司と、狐神たちと、柊介。


 村が——骸になっていく。建物は残っている。道は残っている。井戸は残っている。でも、中身が抜けた。人がいなくなった村は、殻だけの蝉に似ていた。


 チヨは窓辺に立ったまま、しばらく動かなかった。この村を守るために、封印をする。けれど守るべき村人は、もういない。守るのは——村の記憶だ。ここにかつて人が暮らし、笑い、泣き、愛し合った記憶。それを——写し世に沈めて、永遠に保存する。


 豆腐屋の山田のおばちゃんが、店のシャッターを下ろしていた。チヨに気づいて、手を振った。口が動いた。「元気でね、チヨちゃん」——たぶん、そう言った。


 チヨは手を振り返した。笑顔を作った。笑顔しか返せなかった。


 桐生さんの時計屋も、店を閉めていた。百年の柱時計は——持ち出すには大きすぎる。桐生さんが時計の前に立ち、しばらく見つめていた。それから、時計の硝子を布で丁寧に拭いた。最後の手入れ。


 チヨのノートに、ルカが書いた。


『姉ちゃん。みんな、いなくなっちゃう』


 チヨはペンを取った。


『大丈夫。いなくなるんじゃない。新しい場所で、生きていく。村の記憶は——私が守る』


 嘘ではない。でも、全部でもない。



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