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第21話 影写りの粉

 深夜。健司が写真館に来た。


 手に小さな瓶を持っていた。チヨはノートで筆談した。


『何?』


『分析した。影写りの粉を。顕微鏡で。——桜の粉末だけじゃない。微量の銀塩が混ざっている。写真の現像に使う銀塩と同じ成分だ。つまり——影写りの粉は、写真の原理で動いている。光を受けて化学変化する』


 チヨは首を傾げた。何を言おうとしているのだろう。


『もし粉が光で反応するなら——逆の反応も起こせるかもしれない。失った感覚を、一時的に「現像」し直せるかもしれない。定着液の逆——脱定着だ』


 チヨの心臓が跳ねた。


『本当に?』


『理論上は。——試したい。今夜。お前の同意があれば』


 チヨは健司を見つめた。モノクロの視界の中で、健司の魂の光だけが銀色に輝いている。この人は——医者として何もできない自分に絶望し、夢写師の領域に踏み込もうとしている。科学と祈りの境界を越えようとしている。


『やって』


 健司が影写りの粉を少量取り出し、顕微鏡を覗いた。


「……ありえない」


 チヨには聞こえないが、健司の唇が動いた。ノートに殴り書きした。


『桜の粉の中に、銀の結晶がある。だが通常の塩化銀ではない。結晶構造が——六方晶系だ。自然界にはありえない形状。光に反応して変色する——だが変色の方向が逆だ。通常の銀塩は光で黒化する。この結晶は光で透明化する。写真の逆。消すための写真』


 健司は定着液と逆の組成で溶液を作った。酢酸の代わりに炭酸ナトリウムのアルカリ溶液を使い、銀塩の結合を逆転させる。試験管の中で溶液が淡い桜色に変わった。——理論上は。


 溶液をガーゼに染み込ませ、チヨの瞼の上に乗せた。


 冷たい。ガーゼの温度が分かる。触覚はまだある。


 一分。二分。三分——。


 チヨは目を開けた。


 ——色が、見えた。


 一瞬だけ。ほんの一瞬。ガーゼを外した瞬間、世界に色が戻った。健司の白衣。壁の木目の茶色。安全灯の赤。自分の手の肌色。


「見える——! 色が——」


 声に出した。声はまだ出ない時期だった——いや、声も出ない。でも口が動いた。唇が「見える」の形を作った。


 健司が身を乗り出した。


「見えるのか? 色が?」


 チヨは頷いた。涙が溢れた。赤い安全灯の光が——赤く見えた。赤。赤だ。この色を——。


 三秒。


 色が——端から剥がれた。


 現像ムラのように。写真の縁から薬品が足りなくなって像が崩れるように——指先から灰色が侵食してきた。赤い安全灯の赤が、指先から消え、手首に昇り、腕を這い、肩を越え、視界の端から中央に向かって——。


 色が消えた。


 世界がモノクロに戻った。一瞬で。まるでフィルムの露光が終わったように。銀塩の逆反応が——持続しなかった。


 チヨは床に崩れ落ちた。三秒間の色彩。三秒間の希望。三秒間の——残酷な夢。


 健司が膝をついた。チヨの肩を掴んだ。


「もう一度やる。濃度を変えて——」


 チヨは首を振った。ノートに書いた。手が震えていた。


『もういい。——ありがとう。でも、もういい。三秒でも見えた。それだけで十分。それ以上欲しがったら——戻れなくなる』


 健司の手が止まった。しばらく黙っていた。


『……すまない。期待させて』


『期待じゃない。希望だった。三秒の希望。——それを作ってくれたのは、あなただ』


 二人はしばらく、暗室の床に座っていた。赤い安全灯の下で。三秒間だけ赤く見えた光の下で。


 健司が自分の手を見た。右手の指先——溶液に触れた三本の指が、白く変色していた。爪の際から第一関節まで。色が反転している。写し世の色に。触れると——氷のように冷たい。


 健司はその手をポケットに突っ込んだ。チヨには見せなかった。科学を越えた禁忌に触れた代償。翌朝には色は戻った。だが冷たさだけは——七年間、消えなかった。

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